ワンシーン

ワンシーン

ワンシーン(短編小説)

 スマートフォンを揺らしたのは、彼女から「急ですがこれから会えますか?」というメッセージであった。彼女というのは同郷の年下の幼なじみのことであるが、しばらく連絡は取り合っていなかった。しかし僕は彼女の最近の動向の大体は、知りたくなくても理解できていた。

 今からか・・・僕は少し急いでうどんをすすった。古き良き店とは、少し都合の良い表現になるが、金の無い僕にとっては大変ありがたい安価でお腹を温かく満たせるたぬきうどんは、鼻奥に広がる荒節の風味と、明治末期の開店当時から継ぎ足しで作られている秘伝の醤油だしとやらが含まれており、僕は常連になっている。まだ湯気の勢いが保たれている絶品の汁を飲み干す時間はなく、今日はお店のおばちゃんに別れを告げた。

 足早に、いや多少の浮かれ気分で膝が軽くなっていたのだろう。でも疑問や不安で気が滅入っていたのも違いなかった。それはまるで恋人が来るかのような錯覚で胸が高鳴っている実感はあった。
 サンダルの中に小石が入った。その小石は僕の踵あたりをチクチクと悪戯してきたが、僕は不思議と普段のように立ち止まることもなく、なんにもないような素振りで商店街を抜けて、明治の文豪の誰かが眠っているという小さな寺の墓場の裏路地を通って帰った。

 アパートの軋む内階段を2階へ登る時、だいたい思い出されるのは目下の課題の小論文のことである。最新の近代建築を学び論じるのには、まるで矛盾しているかのように老朽している我が城が放つ古びたチョコレートのような香りが、どうにも僕の執筆欲を萎えさせるのであった。
 それよりも、こんな所を通って彼女がやってくるのかという羞恥心が一方的に踵の痛みを和らげてくれたのか、その精神状態が本当に不思議に思えたのだった。

 帰宅し、ややあって遠慮がちに戸を叩く音が二つした。

 玄関を開けてみると、マスク越しでも分かる明らかに以前と違っている美咲が立っていた。こんな古いアパートには不釣り合いな、どこかの高級住宅地にでも暮らしているかのような上品な洋服を纏った少女があの美咲なのか・・・。変わってしまった彼女に対して、降って湧いた嫉妬心のような感情に胸の真ん中あたりが痛んだ。たぶん僕が僕を惨めに思って自分に同情しているのだろうか。そんな様々な苛立ちに一瞬で自分に嫌気が差してしまった。

__こんにちは、元気でしたか?
__ああ、まぁ入る?狭くて汚いところだけど(本来ならお世辞で使う言葉ですが・・・)。

 頬を上げ目を細めて笑うところはテレビCMで見ているのと殆ど同じだったが、地元に居た頃よりも痩せたのか、それとも洗練された女性になってしまったのか。小悪魔のようなメイクのせいなのか、彼女の笑顔から自信が溢れているようだった。

 テレビ画面を通して見るのと実際に会うのとでは見え方が違う、と以前どこかで聞いたことがあった。それよりも、あの幼なじみの美咲とテレビや雑誌で見ている彼女が同一人物なのかという感覚と、いま実際に目の前にいる女性はあの美咲なのだという事実に、僕は少し混乱をしていた。

 彼女は思ったよりも軽やかに僕の脇をすり抜けて、部屋の奥の窓際へ向かって行った。このあとに少し違和感を覚えたのは、18歳の彼女が僕の脇に残した全然似合っていない大人びた香水の香りだった。

__にしても久しぶりだな、いつぶりなんだか。

 冷蔵庫の麦茶を薄いガラスでできた安物のコップに注ぎ、低く小さく、脚がガタついているテーブルに置いて、そう言って窓に向かう彼女の背中へ押し出した。もちろん気の利いたお茶菓子などありはしない。

__私が中学を卒業して、東京に出て来たとき以来かな。

 墓場が見えている開けっ放しの窓の外を眺める彼女の後ろ姿から、達成感のような雰囲気が感じられたのと同時に、僕には劣等感という負の意識が重くのしかかった。一体何の為に今更僕に会いに来たのか。僕はあとどれくらいの時間を、僕と美咲との人生の落差を実感させられ続けるのだろうか。再会して早々に僕は辟易してしまった。

__この前の映画見たよ。最後は感動して泣いちゃったよ。

 生まれて初めて「映画公開日の初日」にチケットを買って映画館へ観に行った理由は、これが彼女の初主演作だったからである。
しかし幼なじみが出演するからといってただ嬉しかった訳でもないし、決して得意げな気分になっていたこともない。
この作品は高校時代に好きだった小説が原作であって、昔から映画化を楽しみにしていたからだ。まさかその映画が美咲の初主演作になるとは、全くもって想像もしていなかったが。

 高校生のヒロインは難病を患い、夢も恋愛も半ばでこの世を去るというありがちと言えばありがちな青春映画である。
小説の登場人物のキャラクターというのは、読み手のイメージひとつである程度は自由に作れます。僕が当時この物語を読んでいたときに頭の中で描いていたヒロインのイメージは、偶然だったのか美咲だったのです。特別に深い意味はなかったように思われますが、彼女の見た目のイメージで小説を読んでいるところがありました。

 僕の言葉に反応し、振り向いてくたびれたクッションの上にストンと正座で座った彼女は、まるで映画のシーンの一コマを見るように可憐でした。

__ありがとう。ヒットしてくれて良かった。どうだった?私の演技で泣いたんですか?
__まぁ演技もそうだけど、ストーリーがストーリーだし。
__あ・・・。なんだ、もっともっと演技を頑張らないとね。

 茶化したあと照れくさそうにニコリと笑った美咲は、また僕に違和感をもたらした。さっき彼女が痩せたように見えたのには理由があったのだ。彼女の上の歯茎には、控えめな八重歯が左右にあったのだが、それらがきれいに取り除かれて歯並びもきれいに整えられ白磁器のように白くなっていた。痩せたというよりも上唇の膨らみが無くなり唇自体が薄くなっていた、というのが正解かも知れない。だが、なにかまたひとつ、そんな美咲を遠く感じてしまったのであった。

__で、急にどうした。いきなりメッセージが届いてびっくりしたよ。
__うん。今度また映画の撮影が始まったの。
__そうなんだ。じゃあ尚更いまは忙しい時だろうに。時間は大丈夫なの?

「なんだよ。ただ自分の女優業の順調さを自慢しにきただけなのかよ」とまたまた胸がモヤモヤとした。僕は学業もバイトもなにもうまくいっていない。僕は明らかに美咲の人生に嫉妬をし始めていたのである。
僕はこんな卑屈なところを持っている。しかし美咲が語り出した内容は、意外にもそんな僕のモヤモヤなんかは軽く吹き飛ばすものだった。

__時間は、あまりないです。このあとも撮影でスタジオに戻らないといけないの。じつはマネージャーに本当に無理言って・・・外の車で待ってもらっていて。
__えっ?それはマズいでしょ!

 慌てて窓の外の通りを見下ろしてのぞき込んでみると、1台の乗用車が墓場の塀の路肩に停まっていた。僕の母親くらいの年齢の、いかにも芸能マネージャーらしき赤いスーツ姿のような女性が運転席に居て僕と目が合った。僕は彼女から確実に睨まれていた。僕はまた慌てて窓から頭を引っ込めた。

__大丈夫なのかよ?若手急上昇株の女優がこんなアパートにいるところを、もし週刊誌にでも撮られでもしたら。
__大丈夫!だから外でマネージャーに見張ってもらっているし、いなかの幼なじみだということも話してあるから。

 美咲は少し眉間にシワをよせ厳しい目付きをしていたが、こんな真剣な表情ですらも演技がかって見えてしまい、真の緊迫感が僕には伝わってこなかった。それは美咲が女優であるからゆえに皮肉なものだ。
だが、そう見ている自分の中に白けている自分が存在しているからこそ、そう見えたのかも知れない。

__じゃあ、とりあえず用件って。新しい映画の撮影がどうしたって?

 そう問うと美咲は、伏し目がちに左下の方へ視線を落とした。すると直ぐに、僕の目を見てまた照れくさそうにこう言った。

__今度の映画でキスシーンがあるんです。

 ドキッとした。その感覚は僕が直感的に美咲がキスシーンを撮影することに対しての、強烈なヤキモチによる鼓動だったに違いないが、と同時に僕は美咲に対して幼なじみではなくファンでもなく、一人女性として見ていたことを思い出した。すると一気に口が渇いていくのを感じて、グイと麦茶を一口多めに流し込んだ。

__そうか、でもそれは女優として避けては通れない道だよね。
__そうですね・・・。で、そのシーンの撮影の日がもうすぐなんです。

 美咲はそう言うと、スッと斜め上方に顔を向けた。視線の先には特別に物も何も無いはず。ただの壁であるに決まっている。でも美咲は、まるでそこに何かあるかのように大きな目をもっと見開いて、なぞに一点を凝視していた。

__つまりなにか、そのキスシーンの相手の俳優が気に入らないとか、そういう話?
__いや、お仕事だから、そんなのはとっくに、覚悟はしてましたよ。
__じゃあ、何が一体?

__私、それがファーストキスなんです。

__・・・・・。

 僕は動揺を誤魔化すかの如く後ろ髪をかきながら、一点を見続けて語る彼女の視線の先を追うように、明らかに何も無い壁の方を振り返って見た。当然ながらただの汚い砂壁だけだったが、そんなことはどうでもよかった。

__ファーストキスが映画の共演者って・・・どうなんですかね。なんか・・・私が想像していたのとは違うんだよな。
__で、でもシーンにもよるんじゃないのか?無理矢理に襲われるようなシーンじゃないんだろ?綺麗で素敵なシーンであれば、それはそれで良いんじゃないのかな。
__ふーん・・・。そうですかね。今回も学生ものの青春映画で、内容はあんまり話せないけど、お相手は若手俳優の素敵な方です。シーンも幻想的で良いシュチエーションで。

 やはり僕は卑屈になっている。
「あんまり話せない」と言われれば「ならば話なんか持ちかけるな!」と苛立つ。俳優のお相手が「素敵な方」と言われると実に不愉快になる。

__それなら良いんじゃないのか。逆に君が想像していたファーストキスって、どんなものだったの?
__え・・・?うーん・・・。つまり映画の共演者とか、好きでもない相手とかではなくて、キチンと恋愛をした相手としたかったなぁと。

 そう言ったとき、美咲は僕に一瞬だけ視線を合わせて直ぐに横に逸らした。ここで彼女はここに何をしにここに来たのかがようやく分かったような気がした。
さっきまで卑屈になっていた自分はもうどこかに行ってしまっていて、美咲が僕に、僕が美咲を想っていたのと同じように、彼女も僕に好意を寄せていてくれていたことを確信した今、よく分からない感情だがどうやら少し安心したのだった。

やや沈黙があって・・・
__仕事、頑張れよ。ずっと応援してるから。何かまた行き詰まったら、メッセージでもなんでもしてきて良いからさ。
__・・・え?あ・・・うん。ありがと・・・。

 僕の少し晴れた感情とは逆に、美咲の表情は曇っていた。僕は美咲を突き放すしかできなかった。
 僕らは幼なじみでしょっちゅう一緒に居たけれど、どちらかが好きだとか告白した仲ではない。ただ一緒にいて安心できて楽しかった存在。
そんな感情同士だったに違いないが、しかし美咲はこれからの人である。これからもしかしたら将来、大女優に駆け上がっていく存在になるのかも知れない。そんな意識が僕の自制心を生み出したのだろうか。

__そろそろ行かないとな・・・。マネージャーに怒られちゃうわ。

 家に来た時の笑顔と違って、今のは少し悪戯っぽく笑っていた。
 玄関に立って黒光りする小さな靴を履いた彼女は、1~2秒ほどドアに向かって動きを止めた。そして息をひとつ、ふぅと吹いて小さな肩で落とした。

 すると急に振り返って、僕の胸元に飛び込んできたのだった。

 僕は驚いたが、ずいぶん前にも同じことがあったので、その時と同じように彼女をギュッと抱きしめてやった。美咲は僕の胸に顔をグイグイと押し付けてきた。そしてもうひとつ、僕の胸におでこをつけて、はぁっと息を吐いた。
美咲から妙に生暖かい体温が伝わってきた。

__私・・・。もう大丈夫です。行きますね。
__あぁ、いつでも連絡するんだぞ。

 パッと美咲は僕から離れたと思ったら、僕の顔も見ずに春風のように玄関から姿を消していた。
 あの似つかわしくない香水の香りだけを残して。

__うわっ!美咲のやつ!Tシャツをこんなに汚していきやがって、もう。

 僕の白いTシャツに、彼女のアイライナーやら口紅なんかがベッタリと付いていた。でもなんだか嬉しくて、少しだけ幸せな気分になった。

 窓から外を見下ろすと、ちょうど美咲は車に乗り込んだところだったらしく、ドアの閉まる音だけが聞こえただけで彼女の姿を見ることは叶わなかった。だが、彼女のマネージャーらしき女性は、さっき見たときの睨み顔とはまるで別人のような温和な表情で僕に会釈をして直ぐに車を走らせた。

 

 一年後、美咲はさらに映画やドラマ、CMなどで大活躍する日本を代表する若手女優になっていた。
 僕はなんとか大学を卒業し、決して大きくはない建築デザイン事務所に就職できたが、住まいは未だにあのボロアパートのままである。
美咲とは、あれ以降まったく連絡はとっていない。

 僕は今、美咲があの時に話をしていた映画を映画館で見ている。もちろん上映初日のことである。
 もし美咲が僕のもとを訪れなければ、たぶん僕はこの映画を見ていなかったと思う。冷静に彼女のキスシーンなんて見られるはずがなかったからだ。
 でも今は妙に清々しい気持ちで彼女のキスシーンを眺めている自分が映画館に居た。

 美咲は憶えていなかったようだ。

 僕が10歳のとき君が隣に越して来てからは、母子家庭で働きに出ている君のお母さんが帰宅する夜までの間、僕の家でほとんど面倒を見ていた。
 兄弟のない僕はまるで妹でもできたような気分で、よく犀川に釣りに行ったり、近くの神社へ虫取りに君を連れ回していた。

 僕がちょうど中学校に上がったころ、僕の家で宿題をしていた君は突然熱を出してグッタリしてしまった。僕は急いで母に伝えると、直ぐに美咲の母に連絡を入れて、母は僕に美咲の家に、彼女を連れて行ってあげるよう言ってきた。

 怠そうにしている君をなんとかして抱き上げると、君は途端にグズり始めたのには参った。自分の家のベッドで寝ていたほうが良いはずなのに、君は僕に帰りたくないと訴えかけてきたのだ。すると君は僕の胸に顔を埋めてグイグイと押し付けてきた。
 その時はなんだかよく分からなかったが僕は君を必死に抱きしめていた。美咲の頭皮はまるで赤ん坊のような柔らかな香りを醸し出していたことを、この時に初めて知った。

 僕の胸で息苦しくなったのだろう。息継ぎをするように火照り顔を僕に突き出した瞬間、僕と美咲は口づけをしていた。

 唇越しに少し当たっている彼女の八重歯の感触で、まるで全身に電気が走ったような衝撃を後頭部に感じて、恐らく数秒間は、そのままの体勢でいたようだった。
 我にかえったのは荒々しくなった美咲の鼻息によるものだった。急いで美咲の唇から離れると、とにかく大慌てで君をおぶって僕の家を出ると、僕の母が先に美咲の家の敷地に入って行く後ろ姿があった。
 そのあとその日はどうにも母と目を合わせることは僕にはできなかった。

 君は・・・美咲は、初めてのキスシーンのことを憶えていなかったようだ。
 それはそうだろう。偶然で、且つ朦朧としている最中での出来事なのだから。
 しかしあれは間違いなく僕らのファーストキスであったのだ。
 だからといって僕はなにも優越感や幸福感はない。心にあるのはただ単純に懐かしさと、美咲が記憶していなかったことに対しての自分のふてくされた感情だけである。

 僕はその後とても酷い風邪を感染うつされてとんでもない思いをしたが、それは余談としておこう。

 映画館を出た僕は、晩秋の空気を襟元に感じて肩を縮こませ今日もあのたぬきうどんを食べて帰ろうと決めた。

 

おわり