そうだ、江戸に帰ろう

そうだ、江戸に帰ろう

そうだ、江戸に帰ろう

私は江戸時代に生まれていたかった。

いや、もしかしたら前世では江戸時代の人間であり、江戸に住んでいたのかも知れない。

 

子供の頃から、江戸時代の浮世絵や江戸の資料を見ると、興味が湧くというよりも、懐かしいという気持ちになってしまう。

だからといって、江戸の時代劇を見ても懐かしい気分にはならない。

なぜなら、あれは「作り物感」が強いからである。

「作り物感」という表現では伝わりにくいか、つまり「小綺麗」なのである。

人も着物も、建物も使っている物も全てが「小綺麗」なのである。

よってリアリティに欠けるため、懐かしいとは思えない。

 

江戸時代の生活をまとめた本や、幕末の写真集などを休みの日の昼食後に見ることがある。

それらを読みながら昼寝に落ちる、そのことを私は「江戸に帰る」と表現している。

私は月に何度か「江戸に帰る」ことにしている。

 

江戸に惹かれる理由は、人間が人間らしく活き活きと暮らしている印象が強く、生活に困っていても、今の時代のように合理化が図られていない世の中だったので、職業から娯楽まで、とても細かく分類されていた。

そのことから、仕事や遊びの自由度が高く、今よりも融通が効く、雑に言えば、適当でも何とか生きていける世の中だった。

自分の江戸から感じる懐かしさは、あくまで庶民的なところであることから、私は前世では、いや、前世でも富裕層でなかったことに違いない。

長屋暮らしの平民、といったところだろう。

どんな味だったのか、こんな屋台で蕎麦を食べてみたかった。

 

江戸時代の屋台蕎麦屋
江戸時代の屋台蕎麦屋

 

しかし、江戸時代で生活をしてみたかった私でも、これはどうしても現代にかなわない点が二点ある。

第一は「医療」である。

風邪をひいた時や怪我を負った時もそうだが、いま現在の医療の治療レベルは、当時とは比較にならない。

私は持病から、毎日痛み止めの薬を服用しないと日常生活に支障をきたすほどの痛みを伴う。

つまり、今の私がこの身体で江戸時代に行ってしまっては、痛み止めの薬が無いため、たちまち寝たきり生活になってしまうだろう。

大怪我をしたり、急病になったり、歯痛になったり、虫刺されで皮膚がかぶれて痒くなってしまったとき、キチンとした治療法、薬品が整備されていない江戸時代では相当な苦痛を味わうことになる。

これは現在にかなうことはない。

 

江戸時代の薬屋
江戸時代の薬屋

 

第二は「トイレ事情」である。

単純に言えば、トイレに「ウォシュレット」が必需品だからである。

江戸時代では当然くみ取り式の便所で、絵などの資料を見る限りでは、長屋の便所は共有トイレで個室状態にもなっていない。

夏は臭いも強いし虫もわく、冬は寒くて凍える思いで用を足していただろう。

お尻を拭くにも「ウォシュレット」どころか、トイレットペーパーも無いので、木ベラを使っていた。

江戸後期でようやく庶民でも古紙を使って拭いていたとか。

となるとお尻の衛生状態は、あまりよろしくなかったはずである。

「ウォシュレット」の快適さや清潔さを知り、文明に堕落してしまった私にとって、このトイレ事情は最重要なのである。

長屋の便所は共同トイレだったことを考えると、もう少し、せめて一軒家の暮らしが限度のような気もする。

 

江戸時代の公衆トイレ
江戸時代の公衆トイレ

 

この二点さえクリアできれば、やっぱり江戸時代が最高の世界なのだと思う。

今の時代は便利になった。

便利を知れば知るほど、経験をすればするほど、不便に戻れないのが人間の弱さ。

不便でも、少なくとも現代のように、時間に縛られ、お金に縛られ、人間関係に疲弊して、人間がただ生かされているだけの地獄のような世界とは、もうちょっとは違う時代だったのではないか。

 

さて今日も、昼ご飯を食べたらまた「江戸に帰る」としますか。

 

歌川広重「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」
歌川広重「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」