閻魔の憂鬱

閻魔の憂鬱

閻魔の憂鬱

 

 白赤岩で作られた大きな露天風呂から、白桃の湯の甘い香りがもうもうと沸き立っている。

 両性花であり、大きな花びらが特徴の真っ赤な艶やかな極楽花が、大岩の湯船の周囲を覆い隠すように咲き溢れている。

 極楽花はボロリと一枚の花びらを落とすと、忽ち新しい花びらがぬるりと生えて来るが、表面の粘液が乾ききるいっときだけの短い間、その花びらは薄い生肉のような桃色をしている。
 閻魔はその生えたての花びらが放つ独特の若々しく甘酸っぱい臭気に、湯船の中でうっとりと陶酔していた。
 なにせこの新しい花びらと白桃の湯の香りが入り混じった時の香しさときたら、閻魔の憂鬱など軽く消し去ってしまうほどだったからである。
 だからといって閻魔は、この香しさの欲に欲して、敢えて花びらを落とそうと思ったことはない。
 不自然からは偽りと疑いしか生まれないことを知っているから。

 白銀の長い髪を、頭の天辺で団子のように結っている閻魔は、噴き出している湯口のある巨大な湯頭岩の上にふわりと飛び乗った。
 そこからの景観はいつもの通り、蜂蜜色をした空が高く高く何処までも続いていて、雪面のような眩しい雲海が、これもまた何処までも果てしなく広がっている。

 閻魔の肩の窪みに溜まっていた湯のひと滴が、鎖骨を超えてつるりと純白の肌にコロコロと弾かれながら滑り落ち、左側の乳房の先端に少し集まってから、足元の白赤岩にポタリと落ちて、ひとつの黒点を作った。
 それを見た閻魔は嫌な予感がして大きな溜め息をつき、後方に顔を向けると、遙か遠くに見える皇極殿から、古筝や月琴、胡弓のそれぞれの音色が、纏まりなく微かに聞こえてきた。
 皇極殿から閻魔のいる湯場へと架かっている雲海の上をうねる一本道。
 そこを弟子の舎利弗が身体を『う』の字ように折り曲げて、トコトコとこちらに歩みを寄せて来るのが分かった。

 閻魔はやや急ぎ気味に、金糸でもって双頭の龍が刺繍されている猩々緋色の羽衣を纏い、湯船の脇に敷かれている、極楽花の大きな葉の数枚の上に静かに腰を下ろし、白赤岩の大岩でできた湯船に寄りかかった。

 同じ頃、大切そうに白銀の皿を持った舎利弗が閻魔の眼前に到着し、まず皿を左側に置いてから、白絹の着物の裾を少しだけ広げて、閻魔の足元にペタリと正座をすると、間髪を入れずに裾を内側に折り込んで、深々と礼をしてから口を開いた。

『閻魔様、またしてもあのホクロの魂が成仏して参りました。ええ、醜いホクロの、あの魂でございます』

 そう言うと舎利弗は、白銀の皿を左手で持ち、そこに薄く張られている水銀の上を、右の手のひらで二、三回ほど撫で回してみせた。
 すると、水銀の面に写っている舎利弗が顔がぼんやりとし始めると、現世の記録が揺ら揺らと浮かび上がってきたのだった。
 舎利弗が銀皿を閻魔へ恐る恐る差し出すと、閻魔も舎利弗と同様に水銀の面を覗き込んでみた。

『まずこちらでございますが、なんとも痛ましい出来事でございましょうか・・・』
 舎利弗は、ホクロを持った咎人の話を喉奥から声を絞り出すように語り始めたのである。

 __時は江戸時代の後期、文政の頃かと思われます。
 大坂に本店がある両替商『栄銀屋』の主人、名は栄屋 喜左右衛門。
 元々は喜左右衛門の兄、鍾右衛門が大坂本店、弟の喜左右衛門が江戸支店を経営しておりましたが、鍾右衛門がはやり病で病死した為、喜左右衛門が大坂本店を引継ぎ、喜左右衛門の長男の喜兵衛が、江戸日本橋で支店を任される運びとなりました。

 __時々、父の喜左右衛門が様子を見に江戸へ来ておりましたが、大坂からは遠方により頻繁な視察は難しくございます。
 支店の一切を自由に取り仕切っていた喜兵衛は、儲けた金で酒や女や好き放題でございます。
 喜兵衛には妻がおりました。出来事の三年前に祝言を挙げた妻は、サナと言ったそうです。
 婚前の喜兵衛は支店を任されたばかりの時、仕事も活き活きと真面目にこなしたそうでございましたが、妻を娶った頃から少しずつ変わってきた様子でございます。

『いいえ、ふたりには結局のところ子はございませんでした。後ほどお分かりになりますが、何せ妻のサナは喜兵衛と縁談を「金」と割り切ってのことでございました。故に家事の一切も使用人や下女任せ、着物屋を呼び寄せては物買いにふけっていたそうでございます』

 __ですので喜兵衛との間に子供すら、愛情さえも生まれていなかったようでございますから、もちろん喜兵衛は面白くなかったでしょう。
 段々と仕事が終われば家庭ではなく、遊びに向かっていった訳でございましょう。

 __そんな果てに、喜兵衛は吉原遊郭の花魁、菊花太夫に心底惚れ込んでしまったようでございます。

『ああ閻魔様、これをご覧下さい。この菊花太夫の美しいこと美しいこと。切れの長い目、細く通った鼻筋。紅が艶やかな、まるで蜜がからめられたような唇でございましょう。いえいえ、閻魔様の美貌には叶いませぬが、これはこれは俗世の男はイチコロでございましょう』

 __幾度も幾度も、喜兵衛は菊花太夫の元へ通い詰めましたが、喜兵衛は菊花太夫の面会が、いつしか日々の仕事への活力の原点となっておりました。
 皮肉なものでございましょうが、情けないと言ってしまえばそれまででございましょう。そしてついに喜兵衛は菊花太夫と一夜を共にすることになります。

『これです、これでございます。閻魔様ご覧なさってください。喜兵衛の左の首筋にある、この大きなホクロでございます。ロウソクの灯りと喜兵衛の流す汗で黒光りしておりますな。そうですそうです、この忌まわしき、あのホクロがこれでございます』

 __喜兵衛はサナと離縁することを決意しました。もちろん菊花太夫を娶る為でございます。が、サナは喜兵衛からの離縁話を取り合おうとは一切しませんでした。それはそうでしょう、サナにとって喜兵衛は良い金蔓だった訳ですから。
 業を煮やした喜兵衛は良からぬ企みを思い付きます。
 やはり人間とは罪深き野蛮な生き物でございますから。
 良からぬ企みとは、喜兵衛はサナを強盗が押し入ったと見せかけて殺害しようと策略した訳でございます。

 __江戸でも小雪が舞うような、そんな凍てつく寒さの深夜、喜兵衛は愚策を決行するに至ります。
 勝手口から賊が侵入したように見せかけ、サナを寝室において殺害する。
 なんとも単純で浅はかな犯行でございましょうか。
 喜兵衛は隠し持った包丁を懐に、サナの寝室に忍び込みました。
 ところが、意外にもサナの寝床の布団は平坦のままでありまして、サナの姿は見当たりません。
 おやと不思議に思った喜兵衛は一旦自室へ戻ろうと、抜き足差し足で引き返そうとします。

『と、閻魔様。ここでございます。この廊下の先の、突き当たりにある物置部屋でございます。引き返す途中にこの物音を聞きつけた喜兵衛は、その物置部屋の襖をコソッと開けてみるのです。すると、ああ情けない、人間とはなんとも情けない生き物でございましょうか』

 __物置部屋には小さな明り取りの窓がございます。ほんの少しだけ月明かりが差し込んでおりますので、なんとなく部屋の中がうすぼけて見えます。
 目を凝らして喜兵衛が見たのは、暗がりの中の堆い布団の大きな影と、戸棚や箪笥があるちょっとした隙間で、もごもごとうごめいている物体でございます。
 うごめいている物体とは、丁稚奉公の安太朗が、喜兵衛の妻のサナを、まるで春先に盛り狂った獣のように、無我夢中となってサナを背後から犯していたのでございます。
 いやしかし、サナの様子はまんざらではございません。
 背後から突き刺さる快楽を必死に堪え、乱れた髪の一筋を口で噛み締めながら、恍惚とした表情の顔を布団の山にうずめながら、必死に喘ぎ声を押し殺し、右手左手で布団のあちこちを掴んでもだえております。
 
『閻魔様。覗き見ているこの喜兵衛の表情をご覧下さい。喜兵衛は妻のサナ、丁稚の安太郎への殺意が増幅していることに目が血走っております。それよりも、これですこれです』
 と、舎利弗はやや興奮気味に閻魔に銀皿を突き出した。

 __嫉妬でもなく憎しみでもない、独占欲を他人に踏みにじられた惨めな心持ち。
 安太朗とサナの快楽の真っ只中を目の前にしながら、その屈辱の最中にも関わらず、自分も共感してしまい、その興奮を訴える愚かな自分の肉体の陰部。
 喜兵衛のこの複雑な表情ときたら・・・一言では言い表せられません。
 真冬にも関わらず喜兵衛は、安太朗とサナと同様に、背筋にたっぷりと汗をかいてございましょう。

『いや情けない。所詮人間というのは、良きも悪きも理性を持った野蛮な動物に過ぎませんなぁ』と舎利弗は、茶ばんだ歯が数本した残っていない大きな口を開けてケタケタと笑っていた。
 そして急に真顔になって、話の続きを語り出した。

 __しかし喜兵衛は、これで正々堂々とサナと離縁を果たせると、菊花太夫との未来を切望したのでございます。
 この日も喜兵衛は菊花太夫と夜を共にしておりました。喜兵衛は菊花太夫に既に婚姻の申し込みをしており、菊花太夫も快諾していた具合でございましたので、喜兵衛は結婚後の生活について、その展望を菊花太夫に喜々として、二人で床に着く夢枕と共に延々と語っておりました。
 が、しかしサナはやはり離縁話を取り合おうとはしませんでした。
 喜兵衛が丁稚の安太朗との話を持ち出しても、サナは表情ひとつ崩さずに、口を真一文字に結んだままでございます。

『これは別の日の深夜のことです。喜兵衛はまたサナの寝室に向かいます。えぇそうです、今度こそサナを殺害するためでございますな』

 __喜兵衛はサナの寝室に忍び込みます。
 部屋の真ん中に布団が敷いておりましたが、先日と違って掛け布団がこんもりとしており、寝息まで聞こえております。間違いなくサナが眠っております。
 喜兵衛は懐から包丁を取り出すところでしたが、今度は隣の部屋からコトリと物音がしました。喜兵衛はドキリとし、嫌な予感がして手を止めました。
 部屋の中にはサナの寝息だけが聞こえているのみになっておりますが、ここでサナを殺害しようにも、万が一、サナの断末魔が表に漏れようものなら、強盗に偽装をするもなにもありません。

 __もしや・・・丁稚の安太朗がサナを夜這いでもしに来たか。
 喜兵衛の中でクツクツと複雑な感情が芽生えて参りました。
 喜兵衛はまず、隣の部屋の様子を見にサナの寝室を静かに出ました。
 真っ暗な廊下をそっと足音を殺して隣の部屋の襖の前までやって来て、廊下から襖に耳を立ててみました。
 聞こえてくるのは喜兵衛の心臓の鼓動音しかなく、あとは真新しい襖糊の匂いだけが鼻をついてくるだけでございます。

 __喜兵衛は中の様子をうかがい知ることができませんでした。
 この部屋は以前下女が使っていたが今は空いているはず。
 喜兵衛は前と同じ要領で、音を出さずに襖を開けてみます。
 暗闇の中で畳の上を這いつくばって、奥の方へ進もうとしたところでした。
 しかしここで突然、喜兵衛は背中から刀剣を突き刺され殺害されてしまいました。
 刀剣は喜兵衛の身体を貫通して畳まで達しておりまして、無惨に串刺しにされた喜兵衛は、翌朝に使用人によって発見されます。

 舎利弗は一旦銀皿を閻魔の前から下げると、その銀皿の縁を着物の袖で自分の指紋を拭き取りながらこう語った。
『さて閻魔様。現場が暗闇だったゆえに姿が確認できませんでしたが、誰が喜兵衛を殺害したのでしょうか』ともったいつけると、閻魔は眉間にしわを寄せ、途端に不機嫌そうな顔になったので、それに臆した舎利弗は少しばかり焦って、直ぐに銀皿を閻魔に差し出し話を続けた。

 __検分に来た役人は、勝手口が開いており、部屋の一部が荒らされた痕跡もあり、恐らくそこにあった金が消えていることから、まんまと強盗によって殺害されたとして処理したようです。
 なぜ喜兵衛がその部屋に居たのだろうか。そこは役人達も不思議だと疑問に思わなかったようでございます。
 なぜなら喜兵衛の懐にあった包丁が無くなっていたからでございます。もしも懐の包丁が役人に発見でもされていたとしたら、役人達は色々とあれやこれやと疑い始めたことでしょう。

 また肩で軽く笑った舎利弗は、人差し指と中指の二本で水銀の上を「乙」の字を書くように動かしました。

『閻魔様、これをご覧下さい。これぞ人間の愚の骨頂。金と欲に塗れた人間の醜態の極みでございます』

 閻魔はさらに水銀の皿に顔を近寄せると、呆れたような溜め息と、一緒に訝しげに首を傾げた。そんな閻魔の反応を横目で見届けた舎利弗は、薄ら笑いを隠して少しだけ頷いてから話を再開した。

 __暗闇の中でございますので更におぞましき光景でございましょう。
 喜兵衛を刺したのはこの男でございます。吹き出物だらけの汚い尻の左側に、大きなホクロがご覧頂けると思います。
 ご存知の通り、この男に股を開いている女はサナでございますが、そのサナに覆い被さって貪るようにサナを抱いている男とは、喜兵衛の父、喜左右衛門でございます。

『これもまた、なんとも見苦しい醜態でございましょうか。人間とは本当に情けない生き物でございますなぁ。はい、これで閻魔様も、これで合点されたとご推察致します』

 __サナは以前から喜左右衛門の妾のような存在でした。
 息子の喜兵衛と縁談させたのは、江戸の支店の監視をさせるため、と言うのはサナへの言い分でございまして、そこには喜左右衛門の、もっともっと欲深く、愚直な愛の執念が隠されてございます。
 喜左右衛門はサナに江戸の支店の監視と共に、喜兵衛の監視役も与えておりました。
 ですので喜兵衛の行動というのは、サナに雇われている隠密者によって、大抵のことは把握されていたのでございます。もちろん菊花太夫とのことも。
 ですがサナに嫉妬心は湧きようもありません。元来喜兵衛への愛など微塵もありませんから。金も充分、喜左右衛門より受け取ってございます。丁稚の安太郎の存在もあり、サナの己の欲求は、全て解決できておりますゆえ。

『そう、喜左右衛門が喜兵衛を殺害した本当の動機。これがこのお話の肝心でございます』

 __それは喜左右衛門が手に入れたくても、何遍も何遍も通い詰めて口説こうとも、どれだけ金をつぎ込もうとも全く相手にされず、悶々とした夜を幾度も繰り返し、商いをしていてもその醜き恋心の情熱が冷めることが無かった。
 大坂へ身を置くことになっても、喜左右衛門はその女を忘れることができなかった。
 喜左右衛門はその女のことを想像しながら、己の妻やサナを抱いておりました。

『喜左右衛門とは愚かで哀れな男でございます。息子を殺害してでも手に入れたかった女。えぇそうです。その女とは菊花太夫でございました』

 __喜左右衛門は大坂に居ながらも、江戸の様子はサナによって細かく伝えられておりました。そして知ってしまったのでございましょう。息子の喜兵衛が自分が恋い焦がれている菊花太夫をモノにしたことを。
 喜左右衛門の嫉妬心に火がついたのは容易に理解できましょう。
 偶然にもあの日、大坂から来た喜左右衛門がサナを抱こうと寝室に向かっている途中、サナの寝室へ忍び込もうとしている喜兵衛を見つけたのでしょう。
 大方の事情を知る喜左右衛門は、隣の部屋へ身を隠し、壁に耳を当てて固唾を呑んでいるときに喜兵衛がのこのこと入って来ました。
 しかしそれは喜左右衛門にとって千載一遇でございました。

 白目が黄ばんでいる瞳を大きく開きながら、興奮気味の舎利弗は閻魔にこう続けた。
『息子の喜兵衛を殺害した後、懐からこぼれ落ちた包丁を回収し、賊が入ったように隠蔽工作をした。されどさすが親子でございますなぁ。この馬鹿馬鹿しい殺人計画が、口裏を合わせたように親子そっくりでございましょう。・・・やや、これは大変失礼を致しました。感心する場所ではございませんでしたな』と言ってから、舎利弗は無理に口を窄めた。
 しかしまだ彼の口角がヒクヒクして鼻で笑っていたのを、閻魔が見逃してはいなかった。

 やや気を取り直した舎利弗は白々しく『へぇ、この話の後日談でございますね?まさか閻魔様がご関心あるとは思いもよりませんでしたので、かいつまんだ要点でのお話になりますが』と閻魔が聞いてもいないのに、舎利弗はこの話の後日談を語り出した。

 __喜左右衛門は喜兵衛の死後、一度だけ菊花太夫に会いに行っておりますが、喜兵衛の死に絶望した菊花太夫は誰とも会おうとはしておりませんでしたので、門前払いを喰らったようでございます。
 その後、菊花太夫は遊郭業から足を洗って故郷の越後へ戻ったようでございますが、その後は追跡をしておりません。
 サナは丁稚の安太朗との不貞が喜左右衛門に悟られ、二人共『栄銀屋』から追放されておりますが、確かその後サナは岡場所に堕ちて一年で梅毒で死んだとか。安太朗の消息は不明でございます。

『喜左右衛門はと言いますと、息子の喜兵衛を殺害後は、妻は情緒不安定になり半年後に病死。事業も傾いて江戸の支店を閉鎖して大坂のみで商いをしておりました。一年後のある日の真夜中に突然気が狂って舌を噛み切って自殺しました。なんでも、夜な夜な喜兵衛が化けて枕元に立つとかなんとかで・・・その場面をご覧いただきましょうか?』
 舎利弗は水銀の上を撫でようとしたが、閻魔はそれを制止した。

『喜左右衛門も誰かから貰った梅毒が頭にでも回ったのではないでしょうか』と、カラカラと笑ってその一言で片付けてしまいました。
 今の舎利弗にとっては、ホクロ以外の事柄は重要なことではなかったのだろう。

 極楽花は時折、強い酸味を帯びた香りを放つ習性がある。
 それは寄り付いた悪い虫を追い払うためだとか。
 一種の自浄作用のような働きなのだろう。
 閻魔は横から伸びている極楽花の葉の一部を折って、葉脈から流れ落ちる白濁した葉水を手のひらで受け止めた。
 掬い手からこぼれ落ちそうなくらいに溜まった葉水を、紫色の長い舌を使ってしゃくって飲んだ。口角から垂れた葉水を羽衣の袖で拭い、閻魔が一息ついたのを見届けた舎利弗は、また再び銀皿の上をスイスイと指でなぞった。
 閻魔は湯船に寄りかかり両腕を組んだまま、舎利弗の語りに耳を傾けた。

『こちらの時代は平成の半ば頃かと思われます。親二人に子供三人の五人家族、ありふれた一家に思えましょう。大抵は外から見ると、何処の家庭もそう見えるものでございます。しかし蓋を開けて見れば何処の家庭も、不平不満や不信感、怒りや嫉妬に愛憎が鬱屈しており、それらがしがらみという名の蔓草になり、雁字搦めで縛り上げられているのでございましょう。ともなると、一見幸せそうな家庭でも、平和な家庭かどうかは果たして疑問となります。例え家族と言っても所詮は人間が作った枠組みのひとつ。壊れるときは儚くも呆気ないものでございます』

 閻魔が退屈そうな素振りをみせたので『あぁ、これまた失礼を致しました。余談はここまでとさせて頂き、本題へと話を進めて参ります』と舎利弗は急いで銀皿の水銀の上に「乙」の字を書き、次のホクロを持った咎人の話を語り始めた。

 __一家の主、五反田 孝介は至って平凡な人格をしております。
 妻の今日子とは大学時代の同級生であり、その頃からの付き合いをもって卒業後に結婚しております。
 長男を出産しその二年後に長女を、ここまでは順調でございましたが、更に二年後、問題は三人目を懐妊した頃でございます。
 今日子はある日、おかしなことを孝介に訴えかけるのです。
 妊娠をして半年後のことでした。
 孝介は長男と長女を寝かしつけた後、居間で酒を呑んでおりました。今日子はその横で洗濯物を畳んでおります。
 ちょうどそのときです。今日子は少し膨らんだお腹を摩りながら、こう言っております。
「あなた、私はどうもこの子を産んではいけないと思うのです」

 あまりに突拍子も無いことを言うものですから、孝介は真に取り合わず半分笑いながらこう返します。

「何をいきなりそんなことを。どうした?その子が生まれたからといって、生活が苦しくなるほど俺の稼ぎが少ない訳じゃない。大変ならば家事だって俺も手伝うし、それ以外に何か不安でもあるのか?」と孝介。

「家事が大変とかではなくて、どう言って良いか分からないけれど、産まない方が良いと思うの」と妻の今日子。

「それでは俺は納得ができない。もう妊娠をして半年も経っている。そのお腹の子を殺せとでも言うのか?そこまでしてでも、産みたくない理由があると言うのか?」

「いいえ、私はただ、産んだら何か大変なことが起きてしまうような、そんな嫌な予感しか最近しないのよ」

 孝介は一笑に伏すことしかできませんでした・・・ただの気の迷いだろう。
 孝介には妊娠中の今日子が、一時的に気の迷いを生じているだけだと、そう腑に落とす事にしました。
 しかしそのとき孝介は、俺がもっともっとしっかりしないとならないなと、健気にもそう思って気を入れ直していたことに間違いございません。

『その半年後、今日子は元気な男の子を出産しましたが、閻魔様ご覧下さい。この可愛い赤子を。えぇもちろん、可愛いこの姿だけではございません。ちょうどオムツを替えておりますな。ここをどうかご覧下さい。そうです、赤子の左側の尻でございます。ございますね、あの忌まわしき漆黒のホクロでございます。まるで魔物に取り憑かれた痕のような、この左側の尻の大きなホクロでございましょう』

 舎利弗はそう言って、またさっきと同じように、水銀の上で「乙」の字を書くように指を動かしました。
 次に閻魔が銀皿を覗いたときには、もうその赤子は二、三歳になっていた。
 しかし明らかに普通の二、三歳の子供と様相が違っていたことに、閻魔は直ぐに気が付いたのだった。

『閻魔様もお気付きですね。えぇ仰る通り、この子は痩せすぎてございます。どうやら今日子は育児を怠っているようです。しかしこれをご覧下さい。長男と長女は、なんともふっくらと可愛らしく育っておりますなぁ。それに引き換え末息子ときたら、どうにも痛々しく痩せ細ってしまっております。明らかに今日子は末息子にだけ育児を怠っております。どうして今日子はこの子にだけ子育てを放棄しているのでございましょうか』

 __末息子の異常は、当然の如く孝介も周知しております。
 孝介は末息子に対しての今日子の対応に強い不信感を抱いており、度々今日子ともめることもございましたが、いつも大体今日子はこう答えるのです。

「私も分かっているの。でもこの子だけは、この子だけは愛せないのよ。自分でも分からない。愛せないというよりも、憎たらしくて仕方がない。見ているだけでイライラして仕方がないのよ。自分がおかしいのも理解しているわ。それでもこの子だけは、この子だけは私は駄目」

 __孝介は困惑します。
 仕事で自分が留守中に、今日子が末息子を手にかけたりしたりしないものか。極端にここまで思い詰めたこともございましょう。
 孝介は末息子を守るために、児童相談所に行きます。
 この手の話は薄汚れた人間社会において日常茶飯事。結局、末息子は一旦然るべき機関に保護されることになりました。
 末息子が居なくなってからというもの、今日子はまるで牙が抜け落ちた女豹のように、しなやかなで落ち着いた日常を取り戻してございます。
 不本意ながらも孝介は致し方ないとは言え、施設に預けた末息子が不憫で不憫でいたたまれず、しかし穏便で平和な家族四人の生活に、そんな葛藤を誤魔化しながら暮らしておりました。

『閻魔様、もうお分かりでございましょう。こちらをご覧下さいませ』

 __今日子と長男と長女が、幸せそうに一緒に三人で風呂に入っております。
 長女が悪戯っぽく、長男の頭を洗っている今日子の首を指でつついております。今日子は愛おしそうに長女に向かって手に付いている泡ぶくをふうっと長女に吹きかけております。
 誠に幸せそうな一家の一幕でございましょうが、あぁなんて残酷でございましょうか。

『閻魔様、そうですここです。今日子の左側のうなじにございます。えぇ、長女がつついておりましたが、湯で髪がへばりついているその左側のうなじでございます。大きなホクロがくっきりとお見えになるでしょう。そうです、忌まわしきあのホクロでございます』

 __末息子を施設に預けてから一年後のことです。今日子にも心境の変化がありました。末息子を手放して、多少なりに末息子へ対しての慈しみの心を取り戻したようでございました。孝介も施設相談員もそれを認め、末息子は再び同居することに相成りました。が、それは悲惨な運命にただ拍車を掛けただけでございました。

 舎利弗は、やりきれないと言わんばかりに眉間にしわを寄せて二、三度ばかり頭を振りましたが、そんな舎利弗を横目で見ていた閻魔は、わざとらしいと率直に思った。

 __末息子と同居を再会した今日子ですが、自身に再び末息子への理由無き憎しみや苛立ちが沸騰する手前の湯のように、さわさわと沸き始めておりました。
 その感情がグツグツと煮えたぎるまでに、さほど時間を要さなかったようでございます。
 むしろ施設に預け入れる前よりも、末息子に対しての今日子の虐待は、一段と激しさを増しているように思われます。

 __食事を与えないばかりか、暴力的に末息子を痛めつけることが日常化してございます。
 しかしご覧下さい、今日子ときたら末息子を殴る蹴るをした後に、おんおん泣きながらアザだらけの末息子を抱きしめているのです。
 実に不気味な光景でございましょう。今日子にも末息子に対して罪悪感という心情が存在しているのです。
 もちろん暴行を加えている時には憎しみや怒りしか心には存在しておりませんが、散々痛めつけた後、彼女からしたら末息子は可哀想で可哀想で仕方がなくなるのでございましょう。

 __残酷にも、そばで見ている長男と長女も、弟が痛めつけられているときは見ていられぬといった表情をしております。
 子供たちも母の今日子に対して、明らかに嫌悪感や恐怖感を抱かずにはいられなくなっておりました。
 しかしどうでしょう。今日子が弟を慰めているときは、長男も長女も何処か安心したかのような安堵の表情に変わっていて、二人で仲良く遊びを再開しておりますでしょう。

 わざとらしく溜め息をついた後、舎利弗は語る。
『人間とは実に野蛮な生き物でございます。当の末息子は飢えと度重なる暴力に、命が風前の灯火となるほど衰弱しているにも関わらず、周囲の人間は己の都合の良いことばかりを切り取って、見て、解釈をして、気を済ませてしまっております。閻魔様、これが人間の本性でございましょうな』

 __しかし父の孝介は、今日子による末息子の虐待が再び繰り返されていることを確信します。ついに孝介は、今日子を烈火の如く叱責をします。そして警察に通報し今日子は連行され、末息子は再び保護されることになりました。
 孝介は、もうこれで一家五人で暮らせることは無いのだと大きく落胆するのでした。

 __その後、今日子はその罪によって逮捕されましたが不起訴処分で釈放されております。
 しかし完全な無罪放免とはいきません。末息子との同居は、孝介や児童相談所の監督によって認められることがございませんでした。

『孝介は、今日子が末息子を身籠もったときに、どうして、産まない方が良いなどと言ったのでしょうか。なぜ産んだら大変なことが起きてしまうなどと言ったのでしょうか。そのことが、どうにも気になって仕方がありませんでした。その答えがはっきりと分かったのは、これから十数年後になるのです』

 舎利弗は今度は銀皿の上で「の」の字を二回書くように指を回し、また閻魔に、銀皿の水銀に映し出された彼らの将来の映像を見せた。

 __末息子は施設で育てられましたが、大きくなるに連れて気性が荒々しくなります。
 他の子に暴力を振るう、物は壊す、人の物を奪う、盗む。
 周囲の大人たちも手をこまねいていた様子にございます。
 中学生になると、ますます荒れ放題になり、喧嘩、万引き、喝上げ。
 同級生の少女に性的暴行を働き、果てに少年院に収監されてしまいます。
 成人になっても気性は変わっておりません。
 職を転々としながら狂気の人生を歩んでいくのです。

 __また職を辞めた末息子は金に困っておりました。もうこうなったら空き巣でもして金を手に入れるしかない。
 魔が差すという言葉がございますが、この末息子に限っては魔もヘチマもございません。
 ある日の夕暮れ、路頭に迷った狼のような目付きで町を物色しておりましたところ、とある一軒家に目が留まりました。
 悪視の強い末息子は、留守中にも関わらず庭側の鍵が施錠されていないことを見逃す訳もございませんでした。

 __空き巣は初めてではない末息子は、手慣れた様子で引き出しを物色しております。金目の物が見当たらず、少し焦って苛立っているときのことです。
 留守と思っていた二階から、夫婦らしき中年の男女がくだらない映画の話をしながら階段を降りてきたのでございます。
 末息子は逃げる間も無いことを悟るや否や、数歩で台所へ行き包丁を手に取ります。当然、中年夫婦も下階の異常に反応を示しました。
 つまり末息子と中年夫婦はバッタリと鉢合わせしてしまったのでございます。

 __末息子もとい強盗には失う物はございません。一足飛びで亭主へ襲いかかります。亭主は抵抗する間もなく、包丁が右の太股に突き刺さりました。激痛でのたうち回る亭主の姿を目の当たりにし、戦慄する妻が恐怖に怯える表情に、あろうことか強盗は性的欲求を発情してしまいます。
 間髪、強盗は亭主の血が付いた包丁を持つ手で妻を思いきり殴り倒すと、強盗は自分の下半身だけ衣服と下着をずり下げて、いきり立った陰部を露出したまま妻に馬乗りになって襲いかかりました。

 __殴り倒された妻には抵抗する気力も体力もございません。一方、亭主の方は必死になって襲われている妻の方に這って身体を伸ばそうともがきます。

『あぁ・・・運命というのはつくづく残酷でございます。運命?・・・運命とは、そもそもどんなものなのでございましょう。運命も、愚かな人間の織り成すひとつの業。所詮、人間の意思によって生み出された偶然のひとつを示す表現に過ぎません。運命とは人間の都合に合わせた、ただ身勝手な解釈のひとつなのでございましょう』

 __必死に這いつくばる亭主は、妻に馬乗りになって強姦せしめようとしている強盗の左側の尻に、大きなホクロが有るのを発見したのです。発見したというよりも、自然と視線がそこに吸い寄せられたという方が正しいかも知れません。
 咄嗟に亭主は叫びました。
 そうです、忘れもしない、愛おしき我が末息子の名前を。
 忘れもしない、見覚えのある尻のホクロを見て、亭主はつい叫んでしまったのでございます。

 __さて強盗の方は、もういつ以来なのか、自分のことを名前で呼ばれたことなど思い出したくても思い出せないくらい前のことでしたので、背中から鋭い矢で心臓を突き抜かれたような衝撃を感じたように、ビクリと動きを止めてしまいました。

『この極限の緊張の際、不思議にもこの場にいる三人は同時に全てを悟ってしまったようでございます』

 __今日子に馬乗りになっている強盗はガックリとうなだれてしまいます。そしてクククっと少し笑うと、持っていた包丁でいきなり自らの喉をかっ切りました。

『笑った意味でございますか?・・・さて恐らくでございますが、自分を知っている人間がそこに、目の前に居た。たったそれだけだったかも知れませんし、自分が馬乗りになっている女が、まさか自分の母親で、さっき刺した男が自分の父だという認識を末息子がしていたかどうかは知るよしもありませんが、皮肉な運命に思わず笑いが出たとも想像がつきます。それが喜びからきた笑いなのか、悲劇からきた笑いなのか、さてさてそれは憶測の域を脱しません』

 __今日子は自分の腹を痛めて産んだ、愛おしくも憎たらしくもあった末息子の、首からシャワーの様に噴き出す生温かい鮮血の飛沫を頭から上半身にかけてたっぷりと浴びながら、まるで教会で懺悔をしているような神聖な心持ちになっておりました。

 ___孝介は太股の痛みなど一切感じず、妻に覆い被さるように崩れ落ちた末息子の左側の尻にあるホクロだけを、いつまでも目を離すことができませんでした。

 __今日子は息子の鮮血を浴びて昔を思い出したのでございましょうか。
 殴る蹴るの虐待をした後に、突然可哀想になって抱きしめてしまうあの矛盾している自分の不甲斐なさを。
 あの時のように今日子は、自分の胸元で絶命している大きくなった末息子を抱きしめながらおんおんと泣き出しました。
 目尻から流れ落ちる涙は、血と入り混じることなく今日子の耳を濡らしてございます。

 白赤岩の湯船に寄りかかっていた閻魔の羽衣は、湯船から溢れ出る湯で全体が濡れて赤錆色に変わっており、閻魔のふくよかな体型がはっきり分かるほど、身体に纏わりつきながら湯気を立てていた。
 閻魔はというと、湯船の縁に頭を乗せて空を見上げた。
 何処に焦点を合わせて良いのか分からないほど、何にもない果てしなく続いている蜂蜜色の空を見上げていた。
 もうもうと白桃の湯の湯気だけが、閻魔の視界に現れては霞んで消え、現れては霞んで消えを繰り返している。

『間もなく、首筋のホクロの魂もやって来るころかと思われます。はい、今日子はこの後、首を吊って自殺してございますから』

 舎利弗は、銀皿を左側に置いて三つ指をついて頭を垂れて嘆願を始めた。
『閻魔様、これまでの話をもって閻魔様がどのようなご判決を下されるか、それは私のような者が口出ししようもございません。こうも繰り返されるホクロの魂の残酷な因果応報でございますが、閻魔様のご審判によって一旦断ち切られ、片方は畜生へ、片方は地獄へ送致されるのが関の山と言えましょうか』

 舎利弗は改めて着物の裾を折り直しました。
『ですがどうでございましょう。首のホクロも、尻のホクロも人間の魂を持ってございます。未だ「人」に非ず、未だ「人間」の魂でございます。双方、欲にかまけた愚かな人間ではございますが、どうかこの魂、今一度、人間としてもう一度、生きる機会を与えてはいかがかと存じます。来世こそ「人間」に「人の心」を獲得致せると、切に期待せずにはおられませんのです』

『えぇ、もちろんでございます。閻魔様は何億という魂のご審判の任の中、この情けない薄汚れた二つの魂に、私の懇願なぞあまりに微塵で、結果、更なる怨嗟を招く恐れもございまするが、何卒、この愚かな魂に、ご慈悲とお導きをお与えくださいますようお願いを申し上げ奉ります』

 閉じると微かな風が起こるほどの長いまつ毛のあるまぶたを、閻魔は頭の動きと合わせるように穏やかに縦へ揺らして、哀願する舎利弗に返事を示した。
 舎利弗は小刻みに二、三度、地面に着いている指で作った三角の中に、その額を埋めるように感謝を繰り返した。

 舎利弗が去り、閻魔は羽衣をぬいで再び白桃の湯に浸かった。
 湯船の縁に片肘をつき、人差し指の長い爪を使って極楽花の花びらをかき分け、雄しべの先端にある花粉を中指を使って優しく採ると、それを粘着質で湿り気のある丸い雌しべに塗り付けた。
 極楽花は受粉すると、また独特な恥ずかしくなる様な香りを発する。
 それが白桃の湯の香りと新しい花びらの香りと混ざり合って、閻魔は安らぎの笑みを浮かべていた。

 閻魔は遠くの皇極殿まで視線を伸ばすと、さっきまで纏まりのなかった古筝や月琴の音が心地よい調和を始めて楽曲を奏でていた。

 少し視線を落とすと、茂る極楽花の隙間から見える、雲の上をうねる一本道を、銀皿を大切そうに持った舎利弗が、身体を『う』の字に折り曲げて、そそくさと軽快に皇極殿に帰って行く後ろ姿があった。

 閻魔は深い溜め息をついた。

『私いま休憩中なのに、何でこんな話を聞かされなきゃならないのよ』と不満そうにつぶやいた。

 閻魔の憂鬱に終わりは無いようだった。

 

 終わり