南十字星と初恋 10「女優 木戸下 玲華」
- 2024.05.30
- 小説
・この話の主な登場人物
「鳥海 美咲(とりうみ みさき)」十九歳:女優、政樹の従妹
「木戸下 玲華(きどした れいか)」三十五歳:政樹と美咲が所属する芸能事務所社長
「で、実際に美咲って、本当にバージンなわけ?」
「ええっ!?・・・そ、そこをまた蒸し返します?」
「蒸し返すって言うけどさ、結局あんたのそのひと言で、いま世間を騒がせまくっている訳じゃない。本当に鳥海美咲は処女なのかって、週刊誌でもネットでも大騒ぎじゃない?私は所属俳優のプライベートまでは干渉しないことにしているけれど、火消しを担当している事務所社長の特権として、それを知る権利くらいあっても良くないかしら?」
「そんなこと言って、思いっきり干渉しているじゃないですか。ええ、正真正銘の処女ですよ。生まれてこのかた彼氏なんて本当に作ったことないし。それに、そもそもそこまで好きになった男性もいないので、恋愛経験は人よりも少ないんじゃないですか?だって芸能界に入ったのって、十二歳くらいからですよ。恋愛とかする時間なってなかったし」
美咲はそこまで言うと、焼け焦げて炭みたいになってしまった小さな肉の塊を、箸でもってポイと空き皿に投げ、こう続けた。
「それに、どうして舞台挨拶の場であんなことを言ったんだ?ってマアちゃんにも言われたけど、あの手の噂話で、人が興味あることって、それ以外にあります?・・・付き合っている付き合っていないってことより、みんなそっちに一番関心があると思うんですよ。それが私の中でずっとイライラしてて・・・」
「で、あの忌まわしき動画サイトのミュージシャンは、本当に恋愛対象ではなかったと?」
「もう・・・ほんっとに思い出したくもないです!・・・やめてくれません?せっかくのお肉が不味くなるじゃないですか!」と言うと、美咲はさっきお皿に投げ捨てた肉炭を、箸で何回か押し潰して粉々にした。
美咲は話題を逸らすためもあったが、仕返しの意味も含めて玲華社長に反撃の矢を放った。
「社長って、どうして女優を辞めてしまったんですか?ネットで見ても、すごくTVにも映画にも出まくってたじゃないですか。私でさえ小さい頃にTVに出てる人って知ってましたし。せっかく売れっ子になれたのに、辞めてもったいなかったなとか、そんな風に思い返したりしないんですか?」と言うと美咲は、自分好みに焼き上がったと言えるかどうか不明なほど、ほとんど火の通っていない生みたいな特上カルビを、迎え舌でもって口に運んだ。
玲華社長はちょうどビールジョッキを持ったところだったが、ピタリと動きを止めた。そしてギラリと銀縁眼鏡を光らせると「美咲!あなた今の食べ方!カメラの回っている前では絶対にやらないでちょうだいよ!・・・迎え舌なんてみっともないんだから!」と言って、グーッとビールを喉に流し込み、ドンとジョッキでテーブルを叩いた。
美咲は大きな目をもっと大きく見開いて、特上カルビで片頬を膨らませたまま、一瞬だけ固まってしまったが、やがて白けたような細目に変わって、ジーッと玲華の瞳の奥を、横目で睨みつけた。
「社長?そんなこと言って、私の質問をはぐらかさないでもらえます?・・・私だって所属俳優として、社長がいったいどんな経緯で、女優から芸能事務所の社長に転身したのか、私だって女優のつもりですから、それくらい知る権利があっても良いんじゃないですか?」
そんな美咲の問いに表情が曇った木戸下社長は、自身の好物であるホルモンが山盛りになっている皿を、全部そのまんま焼き網へブチまけた。ジュワアッと大きな音がすると、彼女らの目の前で、狂ったように炎が旋風の形になって、火柱を巻き上げた。
「あ!熱っつ!!」と美咲は(馬鹿じゃないのこの人!)と言いたいばかりに、やや大袈裟に声をあげた。ホルモンの油であがった炎火で、部屋の周囲の壁や、玲華の顔までも真っ赤に照らした。
美咲はむかし小さいころに、父親に付き添った厄除け参りで見覚えがあった、護摩焚きの炎に照らされた厳しい顔付きの仏像と、狂ったようにお経を唱えている大汗だくの坊さん数名が織り成す、ちょっと狂気を孕んだ、あの特殊な光景を思い出してしまった。
それはまるで玲華の今の感情を表現しているようで、その迫力には、美咲はさすがにたじろいでしまった。
そんな怖じ気づいた美咲の感情を無視して、玲華は自分の箸でグチャグチャと、炎にまみれた網の上のホルモンをかき混ぜ始めた。するとまた炎火や煙が激しく立ち昇るので、さらに美咲は(この人ホントに大丈夫か?)と、滑稽にすら思えてきた。
そんな場面が一、二分も続いたころ、玲華社長の持つ箸が半分以上も焼け焦げてしまい、そしてまだ炎をまとっていてブスブスと音を立てているホルモンをその箸でつまみ、火傷も恐れずに口に運んだのだが、その口が見事に迎え舌であったことを美咲は見逃さなかった!が、しかしそれにツッコミを入れるほど度胸も勇気も萎えていた美咲は、ホルモンとビールを胃袋に流し込む作業をひたすら繰り返している社長を、ただ見つめているだけしかできなかった。
網の上のホルモンがすべて無くなると、誰も待ってやしないのに「う~ん、ちょっと待って」と玲華が言う。すると彼女は呼び鈴を押して店員を呼び、アルコール度数の高そうな、聞いたこともない名前の洋酒を頼んだ。ややあって、小さなグラスにタプタプに張っている褐色の酒が、彼女らがいる個室に届けられると、玲華社長はそれをグイッと一気に平らげてしまった。
しばらく下をうつむいていた彼女は、なにかが納得がいったのだろうか。
スッと顔をあげて、紫色のレンズが入った銀縁眼鏡を外すと、切れ長で少しつり上がっている涼しげな眼が現れた。
社長が眼鏡を外した顔は、美咲ですら見たことがなかった。しかし美咲がもっとも驚いたのは、玲華の右眼の瞳の色が、黒色ではなく紫色だったことだった。今まで銀縁眼鏡に紫色のレンズが入っていたので、同色が重なって、瞳の色まで分からなかったのだ。
美咲がそこに面食らっている間に、社長は勝手に語り始めた。
「私が女優を辞める理由よね。それは単純に、セリフが憶えられなくなったからよ」
こう語り始めた彼女だったが、美咲は「そんなことで?」とは思わなかった。それは美咲が知っている社長であるからこそ、そこには相当な理由が存在するのだと、確信を持って聞いていたからだった。
「美咲も何度も経験していると思うけれど、ドラマでも映画でもセリフを間違えてしまったり、なかなか頭に入ってこなくて、本番で忘れてしまってNGを出すことあるじゃない?緊張感やプレッシャー、集中力、準備不足とか色んな原因があると思うけど。自分でこう言うのもあれだけど、当時の私は今のあなたみたいに何本もドラマや映画を抱えていたのね。だから睡眠時間も足りていなかったし、当然疲れてもいたけれど、あの頃は楽しかった。こう言ってはなんだけど、お金もかなり稼げていたからね・・・やりがいや充実感はあったわ」
すると、伏し目がちになってしまった玲華社長だったが、そんな彼女の目をジッと見ていた美咲は、やはり瞳の色が紫色に変色している、右目のほうばかりに気を取られてしまっている自分に気が付いた。
「いまから六年前に、九州地方で大震災があったでしょう。私の実家・・・つまり私の父が住んでいる地域が、特に被害が酷い場所でね。心配だったから連絡を取ろうにも、母と離婚してからの父は、実家で一人だったし携帯なんて持っていないから、家に何度も電話をしても、あの状況じゃ繋がる訳もないじゃない?・・・震源地から遠方の東京は、現地の被害とは関係なかったし、私は映画の撮影が終盤だったから、予定がビッチリだったものあって、地元に戻ることもできなかったわけ」
そこまで言うと社長は、あのアルコール度数の高そうな、聞いたこともない名前の洋酒をもう一回注文した。
「マネージャーにもお願いして、私が仕事中にも実家に電話を頼んでいたのね。でもあとで分かったことで、うちの実家はドが付くほどのド田舎だったし、特に周りになんにも無いような過疎な土地だったから、電気や水道の復旧とか、全部あと回しにされていたらしいのよね。そんなんじゃあ、いつまで経っても電話なんか通じるわけもないわよね。・・・それでようやく連絡がついたのが、発災から十日後だったの」
トントンとノックの音がすると、玲華はまた黙ってしまった。
店員の女性が酒の入ったグラスを置くと、その店員さんが退室し、ドアを閉めるのと同じくらいのタイミングで、再びその洋酒をグイと一気に飲み込もうとしたが、気管にしみてしまったのか、数回ほど咳き込む場面があった。少し心配になった美咲は、自分の手元にあった水を彼女にすすめたが、彼女は口元をお手ふきで軽く拭うと、ちょっと情け無さそうな微笑をしながら、美咲からの水は受け取らなかった。
玲華はさすがに酔いがまわっているかのように見えた。
彼女の右目の瞳孔は、紫色をした角膜に覆われながら、奥深いところで黒飴のような光沢を帯び始めていた。
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「もしもし、お父さん?・・・もしもし?」
「なんだ?玲華か。どうなんだ、仕事のほうは順調か?」
「私の仕事の話なんて良いわよ。怪我はない?避難所は不便でしょ?・・・家は大丈夫なの?」
「俺の怪我なんて大したことなんかない。家はちょっとは痛んじまったようだけどな。避難所生活も悪かないよ。いつもは無駄に広い家に独りぽっちだが、ここは大勢いて賑やかだからな」
「今度の仕事がひと区切りしたら、絶対に行くから」
「・・・バカ言え。お前なんぞがここに来て、何ができるって言うんだ?・・・俺は大丈夫なんだ。だったら来る意味なんてねぇだろうが」
「ちょっとお父さん。・・・だって私の、自分の故郷が震災にあって、お父さんだって被災して、心配に決まってるでしょ?」
「言ったろ。お前なんかがここに来て、いったい何ができるって言うんだよ。瓦礫から人を救えるのか?怪我をした人を治せるのか?家族を失った人の、心の支えになれんのか?」
「い、いや、それは・・・」
「お前、まさか慰問でもするつもりか?・・・被災地で慰問して喜ばれるのは皇族だけだって、お前知らねえのか?」
「そ、そんな・・・そんな言い方ないでしょう!」
「するとあれか?・・・お前みたいに、そこそこ名の通った俳優が被災地訪問でもすりゃ、マスコミも騒ぐもんだよなぁ?それに被災者からだって、チヤホヤされるもんな?・・・お前、まさかそんな優越感に浸りたいって訳じゃねぇだろうな?」
「え・・・お父さん、それ本気で言ってないわよね?」
玲華は十五歳の中学生の頃にも、父から同じようなことを言われたことを思い出していた。それは玲華が、映画のヒロインのオーディションが合格し、そのために上京をすることが必要となり、父を説得していたときの場面だった。
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父は玄関に座り、泥が付いて重くなっていた長靴を脱がすのに手間取っていた。
「なにを寝ぼけたことを言ってんだ。たった一度、なんだその・・・オーディションっつうのに受かったからって、どうしてお前が東京に住まないといけないんだ?・・・映画の撮影が済んだあとは、いったいお前はどうなるんだ?」
「どうなるって、私は女優をやってみたいの!この映画でデビューできれば、そのあとも仕事が来るかも知れないし、こんなチャンス滅多に無いし、このオーディションだって、何人のひとが応募してきたか知ってる?・・・二万人よ!その大勢の中から、私は選ばれたんだから!」
父が着ている雨ガッパの背中から、ボタボタと流れ落ちる水滴がとめどなく、黒い斑点が、上がり框を点々と濡らしていくさまが、今の彼女とっては余計に感情を逆撫でしていくような、実に不快な描写に思えていた。
「女優とやらになって、なんの役に立つって言うんだ?・・・金を稼ぎたいのか?・・・人気者になりたいのか?」
「えっ?」
「それはお前、人様のお役に立てる仕事なのか?・・・ただ人気者になって、ただ金持ちになって。・・・人より良い生活を送って、優越感に浸って。・・・人からただチヤホヤされたいだけじゃないのか?」
そんなことを父に問い詰められても、言い返せるほどの人生経験を積んでいない中学生の玲華は、悔しくてもただ黙って聞いているほかになかった。
「中学を出たら高校へは行かせてやる。・・・大学に通いたいならそうさせてやる。・・・お前はまず、うちの仕事を手伝え。ここらの集落の連中は、みんなそうやって大きくなっとる。・・・そうやって自分の生活を守っとる。いいか、人様の・・・」
「もういい!!!私はこんなド田舎で人生を終わらせたくないの!!・・・朝から晩まで泥だらけになって、野菜作って、毎年毎年おんなじことの繰り返し!お母さんだって居ないから、うちのことは私が全部やっているじゃない!!・・・人出が足りなくなるんなら(お金が無いのを知っているけれど)誰か雇えばいいじゃない!?」
憤っている彼女は、脇にあった古くから先祖代々使われてきた大きな下駄箱の上に、拳をドンと叩き付けた。そこにあった小さな屏風に描かれた風神雷神の置物がピョンと飛び上がって、パタリと後ろに倒れてしまった。
「義務教育まではお世話になるつもりでした。でも・・・もうそれ以上は、私はお父さんの世話も、お父さんに私の世話をしてもらうつもりはありませんから」
わざとらしく丁寧な口調を使って、吐き捨てるように言った。
二階へ階段を上がろうとする玲華に対し、父はこう言った。
「裏の倉庫に、畑から取ってきた大根が山ほどある。・・・あとで洗っておけ」
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