南十字星と初恋 12「不思議な涙」
- 2024.05.30
- 小説
・この話の主な登場人物
「鳥海 美咲(とりうみ みさき)」十九歳:女優、政樹の従妹
「木戸下 玲華(きどした れいか)」三十五歳:政樹と美咲が所属する芸能事務所社長
「カット!!・・・どうしたのかな玲華ちゃん?これでもう八テイク目だよ」
監督の言葉と同時に、カメラマンや照明や音声、各々のスタッフが元の配置に戻ろうと動いたが、雑音の中に、いくつもの溜め息が含まれていることが、玲華の耳にも届いていた。玲華には焦りしかなかった。
「すみません。・・・もう一回・・・もう一回お願いします!」
こう言って周囲に何度も頭を下げたが、彼女の頭の中は焦りで一杯だったので、もう自分が何をやっているのかも混迷していた。
「新人の若い子じゃないんだからさ、次は本当に頼むぞ!・・・ちょっと休憩!!」
玲華は必死になって台本を読み、セリフを頭に入れていたはずだったが、どうしてもうまく演技ができない。
父親の死後、玲華は女優という仕事に対して無意識なところで意欲を失っていた。決して、やる気が無いわけではない。無意識なところなので彼女に明確な自覚などがあるはずもない。本人が言ったように、単純にセリフが憶えられなくなったという他、彼女には言いようがなかったのである。完全に悪循環に入っていた。
ではどうして父親の死が、玲華の役者としての意欲を、無意識な部分で低下させてしまったのか。それは上京の話になって父と言い争いになったときに、ぐうの音も出なくなった、あのときの父の言葉が影響させていた。
『それはお前、人様のお役に立てる仕事なのか?・・・ただ人気者になって、ただ金持ちになって。・・・人より良い生活を送って、優越感に浸って。・・・人からただチヤホヤされたいだけじゃないのか?』
この父の言葉が、その後どのように娘の深層心理に影響を及ぼしたのだろうか。
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高校生のときに、映画のヒロインのオーディションに合格した木戸下玲華は、この映画がきっかけで、一躍スター女優へと輝き出す。
『ただ人気者になって』
数々の大手企業のCMにも起用され、ある年にはCM契約数が年間トップになった実績がある。
『ただ金持ちになって』
二十一歳にして億を超えるマンションを購入したことが、世間の話題を呼んだ。
『人より良い生活を送って』
取材を受けるにしても、なにかの撮影にしても、移動先には自分より倍以上の年齢の男女から、必要以上に丁寧な口調で気遣いされることなど、常に当たり前なことだった。
『優越感に浸って』
TVのサプライズ番組の収録で、とある高校の体育館で全校生徒の前に登場したときだった。男子生徒は歓喜に湧いて、女子生徒からは涙しながら手を振られ、いつまで経っても収まらない歓声を浴び続けた。
『人からチヤホヤされて』
「父は無事 すぐ東京へ戻れ」「父は無事 ひなん所にいる」
『人様のお役に立てる仕事なのか?』
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「芸能人ってさ、仕事が最優先だから、親の死に目には会えないぞって言われているじゃない?・・・父と別れてから、遠くで暮らしていた私の母が亡くなったときも、その二年後に父が亡くなったときも、私は両親とも仕事でお葬式に参加できなかったの。芸能人だから・・・ってその言い訳が嫌なのよね。芸能界だろうが、それ以外の業界とか、全然関係ないじゃない?って思ったのよ。どうであれ、なんであれ、人と人のお別れって人生で一度きりの出来事じゃない?」
「あ・・・だから社長って!」と美咲がようやく気が付いた。
「そう。・・・私は誰にもこんな思いはさせたくない、させないために自分の会社を作ったの。少なくとも、私の会社に所属している俳優もスタッフも、人が人らしく人生を送ってもえらるようにね。・・・そんな会社を作るんだ、って思ったころから、全然セリフとか憶えられなくなっちゃって。あぁ、私ってもう、女優業に興味なくなっちゃたんだなぁ、って。・・・興味がなくなるとね、本当に集中ができなくなって、それにね、次にやりたいことが出来てしまうと、ますますいまの現状がどうでもよくなってきちゃうのよね。・・・元来の無責任女なのよ。で・・・もう女優の資格・・・ないなって。・・・で、もう女優は辞めよう・・・って」
ここまで話をすると、玲華社長は右肘をテーブルに置き頬杖をついていたが、急に酩酊状態のような顔つきになり、紫色の右目が、黒色の左目と焦点が合わなくなり、眇のまま、次第に瞼を落としていった。
それを黙って見ていた美咲だったが、社長が何を言わんとしていることくらいは分かっているつもりだった。だが美咲自身は、まさに飛ぶ鳥の勢いでの活躍中であり、いま現在でさえ、大変充実していた最中だったが、この先に、私もこんな思いをするときが来てしまうのかな、と少しだけだが戸惑いがあったのも嘘の感情ではなかった。
そして、これは演技でもなんでもなく、美咲の左目からは、一筋の涙が頬を伝って流れていた。美咲当人も、この涙の意味というのは分からなかった様子だった。それも当然で、この涙は喜怒哀楽とは関係しない、不思議な涙であったからだ。不思議な涙ではあるが、誰でも流したことのある、あの涙と同じ涙に違いないのである。
酔いつぶれた玲華を前に美咲は、残っていた高そうな牛肉が、時間が経過して脂身が白色から半透明に溶けかかっているのに気が付いた。ハッとなり、勿体ないと箸を伸ばし、かんがりともしない、だいぶ弱っていた炭火の網に、牛肉を敷き広げた。
彼女らの個室には、香ばしい焼き肉の匂いだけが、白けたように漂い始めていた。
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