南十字星と初恋 20「白い月」
- 2024.05.30
- 小説
・この話の主な登場人物
「富岡 政樹(とみおか まさき)」二十五歳:鳥海美咲の従兄でマネージャー、元ミュージシャン
「盾ノ内 凡司(たてのうち ぼんじ)」二十五歳:警視庁刑事、巡査、政樹の同級生
「道内 佳澄(どうない かすみ)」三十五歳:警視庁刑事、警部、凡司の先輩
「ヴァルデマー ワーグ(Waldemar Vag)」四十八歳:家妻雪夜の主治医
政樹はまた、あのK病院に来ていた。家妻雪夜が転落したとされる現場のK病院である。病棟の外側にある非常用のらせん階段の下。また注意されても困るだけなので、あのときのように仰向けに寝転んだりはしなかった。先日の春先と違って、この日は晩春とは思えない初夏の陽気になり、昼過ぎの時刻もあってか、若干の蒸し暑さすら感じるなか、政樹はぼんやりと突っ立っていた。
以前ならばこの場に来ると、雪夜の意識に少しだけ自分の心を重ねられるような、同調しているような、虚しくもあり、穏やかにもなれる複雑な場所であったが、現在の政樹の心境は、あのときのそれとはだいぶ変わっていた。
この場には家妻雪夜ではなく、まったく別人の宮ノ前朱里という女性が倒れていたことになる。
詳しいことは自分には分からない。盾ノ内凡司と道内佳澄が、解決へと邁進してくれている。それだけで良かった。あとは待っていれば、おのずと事件が解決し、雪夜の安否も分かるだろう。そういう楽観している思いが政樹にはあったが、やはりどうしても気になって仕方がない、心残りがあった。それを確かめたいという思いに駆られ、政樹は久しぶりにこのK病院に来たのだった。
人気女優のマネージャーである彼に、本来はそんな暇は多くなかった。しかし政樹は居ても立っても居られなくなっていた。
以前に、家妻雪夜が亡くなったとされる日の当日のくだり、盾ノ内凡司と道内佳澄が病院スタッフに聞き込んだ会話の中で、どうにも腑に落とせない話題があった。それを確かめるべく、仕事の合間を抜け出してこのK病院にやって来た。それはその病院スタッフに聞きたいことがあったから。会って直接、確かめたいことがあったのだ。
実は、そのスタッフに会いに来たのは今回が初めてではない。何度か密かに訪れたが、忙しいからと取り合ってもらえず、門前払いを数回食らっていた。
今度こそ、そうだ、こんな場所にいるよりも院内に行かなければと、政樹は病棟の脇の通りから、入り口に向かおうとした。
するとそのときだった。ひとりの男が脇の駐車場の車と車の間から、ふらりと政樹の進行を邪魔するように、彼を立ち塞ぐように横から現れた。
その男は全身スーツ姿で、背丈は政樹より少し目線が高かった。どこかで見たことのある顔をしている。だが政樹はその男が誰なのか、すぐに思い出した。
男は、政樹のその表情から、政樹が自分のことを知っていると直感した。
その男はスーツジャケットの後ろから、冷たそうに銀色に光る、大きな刃物を抜き出した。
政樹の首を左手でのど輪で掴み、体当たりをするように病棟の壁に身体ごと押さえ込む。
男は逆手で持ったサバイバルナイフを、政樹の心臓に目がけて振り下ろした。
佳澄警部と凡司巡査は、ノスタルジア病院群の正面ゲートで通行証の申請手続きをしていた。
入り口のゲート周辺は、ちょっとした軍事基地をイメージさせるような作りをしていて、かつ厳戒態勢を思わせる屈強そうな軍人たち数名が、大きめな銃器を携えていた。
凡司らふたりはここで、携帯電話や撮影機器などの全てを預けなければならない。もし隠し持っていた場合は、現地の法律によって厳しく裁かれてしまうからだ。
「さっき誰かに連絡してたんスか?」
「えぇ、課長にね。確認してもらっていたことがあったけれど、その結果を。やっぱりあの日、転落死したのは宮ノ前朱里で確定したわ。家妻雪夜の遺骨を調べたところ、宮ノ前朱里のDNAと一致したって。転落地点の血液、遺骨とも宮ノ前朱里のものであったわけ」
「やっぱり!・・・これで間違いないっスね」
「それと、もうひとつ調べてもらっていたことがあったから」
「え?・・・課長にそれだけ注文できるって、先輩くらいなもんっスよ」
少しだけ不敵な笑みを浮かべた佳澄警部だったが、またすぐに真顔に戻った。
「ところで、調べごとってなんなんスか?」
「うん、単純に説明するとね、私は二通りの推測を立てていたのだけれど、どちらに転んでも大丈夫なように準備を進めているって感じかな」
「??・・・全然、質問に対しての答えになってないっスよ。自分は相棒なんスから、もうちょっと分かるように説明して欲しいっスけどね・・・」
「いつまで私の推理におんぶにだっこされるつもりなわけ?・・・君もいっぱしの刑事なんだから、君なりに頭を使って考えて、この事件の顛末を想像してみたらどう?」
「・・・いやぁ、色々と考えてるんスけど、なんか全然まとまらないんスよね。こうやってオーストランドの医療都市まで来ておきながら、なんか本当に俺らの目的がここで果たせるのかなって、変に自信が無くなってる自分もいるんスよねぇ・・・」
後頭部で短い髪をかきながら、凡司はぶつくさと呟いた。が、この話を聞いた佳澄先輩は「なかなかいい線いってるかもね」と心の中では返事をしていた。
家妻雪夜、本名は永井水雪になるが、彼女が入院しているとされる病棟は、このノスタルジア病院群のGエリアの第七病棟。主にガン治療に特化した病棟とされている。刑事ふたりは、いよいよその病棟にたどり着いた。
真っ白で無駄なほど広いロビーは、いかにも大病院らしかった。ただ一般外来が存在しないだけに、病院職員と入院患者らしい人がパラパラと居るだけだったが、さすが世界各国から寄せ集められているだけあって、色々な肌色をもった人たちが混在していた。
丈の長い白衣の両ポケットに手を入れたまま、両足と肩幅を同じくらいに広げて立っている長身の男性が、真正面で彼らを迎えていた。
彼の名は「ヴァルデマー ワーグ(Waldemar Vag)」と言って雪夜の主治医らしい。彼は医者といっても、偏屈なところや気難しいところはなく、いたって紳士的な医者だった。しかし、彼の顔の表情は浮かない様子だった。それは彼が元来色白な肌質だっただけではなく、明らかに深刻な面構えをしていることが、その面持ちからうかがえたからだ。
「いいでしょう。とにかく、彼女のところへ案内しますよ」
取り急ぎ自己紹介を済ませると、ヴァルデマー医師はこう言い、刑事ふたりを病棟の上層階へと引き上げた。彼女が治療されているであろう病室は、この病棟の二十三階にあるらしい。
ガラス面の多い開放的なエレベーターから、ノスタルジア病院群にそびえ立つ数々の病棟、街並みが眼下に広がっていく。雲一つない青い空に、白い月がぼんやりと霞んでいる。
凡司の目にはこの白い月が、妙に情緒的に写っていた。
「やめろこら~~!!!」
数名の男たちが、政樹に襲い掛かっている男に向かって、一斉に飛びかかっていった。刃物を持った男を、数名の男たちが政樹からはぎ取った。政樹はなにがなんだか分からないまま、ただ病棟の壁に寄りかかっているしかなかったが、彼の両膝はガクガクと震えが止まらなくなっていた。
男たちの内のひとりが、政樹の胸に手をあてて声を張り上げた。
「怪我人一名!!早く医者に!!」
政樹は、自分の胸に男の刃が刺さったことに気付いていなかった。
「富岡さんですね!?我々は警察です!・・・しっかりしてください!!すぐに手当てしますからね!!」
警視庁の捜査員とみられる若い男性のひとりが、政樹の胸を押さえながら、彼にこう呼びかけていたが、政樹は自分の意識が段々と薄れゆくことを自覚し始めていた。視界は徐々に緑色に変わっていったが、視線を落とすと、自分の左胸を押さえている男の指の隙間から、紫色の筋が幾筋も垂れ流れているのが分かった。緑色の視界が、次第に薄暗く変化していく最中、聴覚が少しずつ遠のいてゆく。
そばで声がけをしている男性の背後から「深田を確保!!・・・深田光憲を確保!!」といった声が、かすれがすれに聞こえていた。
(深田?・・・そうだ深田だ。あの写真の男だ。どうして深田光憲が、僕にこんな・・・)
ついには聴覚が途絶え、膝の痙攣も止まった。
政樹は不思議と、さっきまでの驚きや恐怖、胸の痛みはなくなっていた。もうどうでも良いという開き直りではなく、もうどうにもならないという諦めに近い心持ちになっていた。しかしすぐに、そういった思考すら分からなくなっていった。
周囲の喧騒をよそに、政樹は力を失くし、静かに介抱する若い捜査員に、自分の身体をもたれかけた。
その頭上の遥か先、初夏の真っ青な空には、まるい白い月がかかっている。
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