南十字星と初恋 21「刺客」
- 2024.05.30
- 小説
・この話の主な登場人物
「富岡 政樹(とみおか まさき)」二十五歳:鳥海美咲の従兄でマネージャー、元ミュージシャン
「鳥海 美咲(とりうみ みさき)」十九歳:女優、政樹の従妹
「盾ノ内 凡司(たてのうち ぼんじ)」二十五歳:警視庁刑事、巡査、政樹の同級生
「道内 佳澄(どうない かすみ)」三十五歳:警視庁刑事、警部、凡司の先輩
「ヴァルデマー ワーグ(Waldemar Vag)」四十八歳:家妻雪夜の主治医
「木戸下 玲華(きどした れいか)」三十五歳:政樹と美咲が所属する芸能事務所社長
病棟の二十三階にて、家妻雪夜の主治医であるヴァルデマー医師は、病室へ刑事ふたりを先導していた。院内の廊下は、いわゆる一般的な病院と、さほど変わらなかった。医療従事者も多国籍ではあるが、特殊な様相は見受けられない。
しかし凡司は、佳澄先輩の様子が変わったことに気付いていた。明らかに、先輩の金縁眼鏡に入っている、紫色のレンズ奥の眼光が鋭くなっており、瞬きすらしていない。はるか上空より鷹が獲物を狙っているかのような、一定の冷静さは失わず、ただ純粋にその機会に的を絞っているようだった。
「先輩、どうしたんスか?」と凡司は小声でうかがってみた。
だが先輩は一切返事どころか、相槌ひとつもすることはなかった。
「ここです。彼女の病室はここです」
ヴァルデマー医師は病室前で「Miyuki Nagai」と名の入ったネームプレートを指差した。
日本から来た刑事ふたりは、いよいよ三年前に死んだはずのシンガーソングライター、家妻雪夜がいるとされる病室へ入った。
広い病室だったが、明らかに個室だった。院内の作りと同じく、床から壁、天井にかけて白が基調となっていて、少し眩しいくらい感じてしまう。窓際付近につけられるようにベッドが立ち、そのベッドの周囲には多くの医療器材が取り囲んでおり、規則性の高いテンポの電子音と、低く唸るような重低音が、病室内に不協和音を響かせていた。
ちょうど医療従事者と思しき女性が、点滴の交換を行っているようだった。
「ちょっと、きみ。いったい何を点滴しようとしているんだ?・・・いまは点滴の交換時間ではないはずだが?」
こちら側に背中を向けている医療従事者に、ヴァルデマー医師はこう問いかけると、女性は一瞬肩をビクッと震わせた。女性はそれでも手を止める素振りを見せることなく、一層に淡々と、むしろさっきよりも手早く点滴の交換作業を行おうとしている。
「きみ!だからなんの点滴を・・・」
ヴァルデマー医師が語気を強め、小走りに歩みを進めようとしたときだった。ヴァルデマー医師の横から素早い影が動いた。点滴を取り替えようとしている女性の腕を、獣のような俊敏な動きで掴み上げたのは道内佳澄警部だった。
「木原彩香ね!!・・・警察よ!!」
こう怒鳴ると、点滴交換の女の左腕を後ろ手にねじり上げた。「うっ」と小さくうめいた女は、キッと横目で佳澄警部を睨み付けた。この一連の動きの反動で、点滴の袋が宙を舞い、ヴァルデマー医師の足元にバサリと落ちてきた。
「あ!!・・・お前は家妻雪夜が入院していたK病院の看護師!お、俺たちが聞き取りした・・・な、なんで?・・・先輩!どういうことっスか!?」
慌てた凡司は、遅ればせながら駆け寄って、木原彩香の右腕を抱え込んだ。
「やっぱりあなただったのね。やはり深田光憲は日本に戻っているってことよね。っていうより、そもそも日本を出ていなかったんじゃない?我々の目を欺くために、出国したフリをした。・・・わずかな可能性だったけれど、課長に水際対策を頼んでおいて正解だったわ」
「なんか変な違和感があったんスよね。深田が本当にこの国に入って来ているのか。でもまさかお前が居るとはなぁ!」
ガクッと首を垂れたのは、木原彩香看護師だった。
「深田光憲とあなた、グルだったのよね。厳密に言えば、宮ノ前朱里もだけど。・・・だからこんな大それた計画が実行できたわけね。事前に深田が家妻雪夜を取り込んで、この病院に入院させた。家妻雪夜と見せかけて宮ノ前朱里を殺害する。しかし家妻雪夜の病状が回復したことで都合が悪くなった。そこで今度は彼女を消そうと画策した。あなたなら看護師免許を持っているから、この病院で医療従事者として容易に紛れ込める」
「あ!先輩が課長に調べてもらっていたことって・・・」
「そう、この女が、以前に勤めていたK病院を辞めていたこと。それと医療従事者として、この病院に木原彩香が登録されているかを調べてもらっていたの。で、ビンゴだったわけ」
「だから先輩はこの病院に入ってから、ずっと周囲を警戒していたわけっスね!」
「クッ!・・・あと少しだったのに」
木原彩香は絞られた腕の痛みから、うめくように声を漏らした。
「本当にあと少しだったわね・・・危なかったわ」
ヴァルデマー医師は、落ちた点滴の袋を取り上げて「これに・・・この点滴になにを混ぜた!?」と、悔しがる木原看護師の顔付近に突き付けた。
本当に、すんでのところだった。木原彩香看護師は、点滴に筋弛緩剤を混入させて、家妻雪夜の殺害せしめようとしていたのだ。
ヴァルデマー医師の通報により、セキュリティーの警備員らが次々と病室内になだれ込んで来る。
佳澄警部と凡司巡査に両腕を抱えられ、速やかに木原彩香は病棟の警備室へ連行されようとしていた。
しかし凡司は気にかかっていた。
この騒動の最中にも関わらず、ベッド上にいる家妻雪夜の身体は、一度もピクリと動かなかったのだ。いや、動かさなかったのだ。ヴァルデマー医師が、なにやらせかせかしながらモニターをチェックしたり、点滴薬剤の確認をしているようだった。周囲は医療器材に囲まれているため、家妻雪夜の顔付近が一切見えずにいたが、それにしても微動だにしなかったので、凡司はどうにも嫌な予感がしてならなかった。
「あれ?・・・社長、どうしたんですか?」
新たに今秋から公開されるCMの撮影を終えて、控室に戻って来た鳥海美咲の前に、所属事務所の社長である木戸下玲華が背中を向けて立っていた。もちろん腰に手をあてて、例のモデル立ちをしていたが、いつもよりも少しだけ肩が落ち気味だったことに、美咲はすぐに気が付いた。
「社長、来ていたんですか?・・・あれ?マアちゃんは?」
美咲は、そこまで広くはない控室の中をキョロキョロと見回してみた。その言葉に反応した社長は、ゆっくりと振り返った。いつもの通り、紫色のレンズが入った銀縁眼鏡をしているため、玲華社長の視線まではつかめなかったが、どうやらなにかがあっただろうと、美咲は胸がつまった。
「マアくんが刺されたの。今はK病院で治療中よ」
「え!?・・・」
「警察からさっき連絡があってね・・・そのK病院で胸を刺されたって」
「えぇっ!?・・・」
美咲はフルフルと震え出した。腋の下にジワリと嫌な汗が滲むのが分かった。
「犯人はその場で取り押さえられたようだけれど、どうしてそんな場所にマアくんが行ってたのか・・・美咲なにか知ってる?」
「マアちゃんは私がスタジオへ向かうまで、間違いなくここに居たのに・・・あっ!・・・家妻雪夜?」
「そうよ。あの家妻雪夜が亡くなったK病院で、マアくんは刺されたの。なにをしていたの?マアくんは」
「調べていたみたい。・・・家妻雪夜が亡くなったことを、マアちゃんはずっと引きずっていて。・・・確か、確か前にも私の仕事中に抜け出して、盾ノ内くん・・・あ、私とマアちゃんの同郷の警察官の人なんですけど、なんか調べているって。聞いてもあんまり詳しく言わないし、私も仕事サボってなにやってんだか程度にしか・・・」
社長はちょっとした、ため息をついた。
「家妻雪夜が亡くなってから、マアくんは音楽をやめたのよね?」
ため息まじりに、こう美咲に問いかけた。しかし美咲は政樹の容態を心配するあまり、玲華社長の質問が耳に入らなかった。
「社長!マアちゃんは大丈夫なんですか!?」
「まだ手術中らしいわ。それ以外は全然分からないの。私はもう少ししたらK病院へ向かうわ」
「私も行きます!!」
「あなたはまだこの後にも仕事があるでしょ?・・・穴をあけるの?」
私も行きますと勢いで口からつん出たものの、以前の焼肉屋での社長との会話を美咲は思い返していた。しかし、美咲は政樹が死んでしまうなんて考えられなかった。政樹の臨終に立ち会うなんて、政樹を葬儀で見送るなんて、まったく考えられなかった。だが、これまでの女優としての大躍進の裏には、政樹のマネージメントによる功績が大きかっただけに、自分のこれからの女優業に対し、不安に似たような恐怖感が背中を覆い始め、身体がゾワゾワしていた。
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私はマアちゃんのことを、なんだと思っていたんだろう。ただのマネージャー?ただのいとこ?
違う、都合の良いマネージャー、都合の良いいとこ。
きっとそんな風に思っていたから、マアちゃんの命よりも、私の今後の女優人生がどうなるのかを先に考えてしまっている。人が、大切な近しい人が生きるか死ぬかというときに、私って、結局自分の心配事ばっかり。
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美咲は自分に呆れてしまっていた。
「美咲・・・人生って、どこの誰だって自分が主役なのよ」
ハッとした美咲の目の前には、両手を腰にあてて堂々と胸を張っている玲華社長が居た。
「人生の主役は自分。その他の人は所詮みんな脇役なの。誰から見たってそうなのよ。誰かに自分の気持ちを重ねたって、結局は本人にしか分からないし、逆に自分の気持ちなんて、どこまでいっても相手に分かってもらえない」
美咲は気が動転していてパニックだったのだ。下唇に添えた右手の人差し指が、氷のように冷たくなっている。
「仕事か病院。自分が行きたいほうを選びなさい。どっちを選んだって、私がどうにでも責任は取れるんだから」
美咲は以前、焼肉屋で社長が語っていた話の意味が分かりかけていた。今まで無我夢中で芸能をやってきた自分だったが、どれだけの人たちに支えられていたのか。社長と政樹が、どれだけ味方になってくれていたのかを、いまさらながら胸を打ってきたのである。自分ひとりではここまでは来られなかった。それに、これからも周りの助けがないと、私だけでなんてやっていけない。
「社長・・・マアちゃんをお願いします。私は次の仕事に行きます。仕事に穴をあけたら、それこそマアちゃんになに言われるか分かんない」
「そんな精神状態で大丈夫?無理しなくても良いのよ?」
「大丈夫です。私、女優ですから」
「は・・・生意気なんだから。・・・分かったわ、次の現場には別のマネージャーを向かわせているから。マアくんの状況が分かり次第、あなたに連絡するわね」
息をフッとひとつ吐いた美咲だったが、明らかに強がっていた。しかしちょっとした余裕は生まれていた。繰り返しになるが、美咲は政樹が死んでしまうなんて考えられなかった。きっとまた今までと同じように、変わらず当たり前に、政樹と共に女優業を突っ走って行くんだと、このときはそう信じ切っていたからだ。
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