南十字星と初恋 3「家妻雪夜という人」
- 2024.05.30
- 小説
・この話の主な登場人物
「富岡 政樹(とみおか まさき)」二十五歳:鳥海美咲の従兄でマネージャー、元ミュージシャン
「盾ノ内 凡司(たてのうち ぼんじ)」二十五歳:警視庁刑事、巡査、政樹の同級生
「家妻 雪夜(かづま ゆきよ)」二十九歳(享年):シンガーソングライター
「中瀬 華織(なかせ かおり)」二十七歳:雪夜のマネージャー
「古屋敷 凰助(ふるやしき おうすけ)」五十歳:雪夜が所属するレコード会社社長
一週間後、美咲は都内某所で今度撮影が開始される主演映画の衣装合わせに来ていた。
時間が余っていた政樹は、別室でスケジュール管理の作業をパソコンで進めていた。脇に置いたスマートフォンがバイブすると、相手は凡司からだった。政樹は、また連絡すると言っておいて失念していた気まずさがあったが、そこは古い仲ゆえに罪悪感は無かった。電話に出ると、凡司もそんな約束なんぞまるで無かったことのように普通に用件を切り出してきたのであった。
「俺の出世祝いの会はいつ開いてくれるんだ?・・・はは!冗談だよ。俺も一気に忙しくなって、もうそれどころじゃなくなっちまった」
ここまで言うと、凡司は途端にヒソヒソ声になった。
「ああ、でもな、お前に頼まれているあの件、もう少し待っていてくれ。捜査資料はどこにあるか知っている。今度じっくり読ませてもらうことにするよ。・・・だろ?いきなり俺の出世が役に立つとはな。だから尊敬しろよな、またな」
凡司は政樹を少しおちょくって、一方的に電話を切った。
先の話で説明したが、家妻雪夜の死に関しておさらいしておきたい。
三年前に病棟の外側にあるスロープの二階付近から誤って転落し、脳挫傷によって死亡した。警察には事故死したものとして処理されており、その後のニュースにおいても、それを否定したり疑いを持った報道は一切されていない。
事故の二年前、雪夜は二十七歳のときに子宮にガンが見つかった。極秘で手術をおこない経過は良好だったので、休んだ分を取り返すようにレコーディングを精力的にこなしていた。しかし二十八歳になったころ、今度は肺に転移が見つかり、再入院し治療を受けていた。
入院中、彼女はよく早朝に好んで散歩をしていたようだった。散歩といっても、もちろんK病院内になるが。
警察の調べでは事故のそのときも、K病院の二階の外側にある、非常用らせん階段のスロープの手すりに腰を掛けて休んでいたとされた。しかしバランスを崩して後ろ向きに頭から落下したらしい。その手すりから採取された指紋だが、彼女の両手の掌底と指の跡が、階段の外側に向かってではなく、内側に向かって残っていた。つまり階段の内側を向いて柵に背中をつけ、両手で手すりを掴んで、手すりに腰を下ろす格好だったと予測された。
もちろん両手の跡の間には、彼女の腰幅と同様サイズの間隔があったので、そのような姿勢であったと断定された訳になる。
雪夜の死の一報が世間に激震を走らせたとき、にわかに騒がれたのが事故死だったのか、それとも自殺だったのかであった。
しかし警察は即座に事故死と断定した。それは周囲への聞き込みによるものと、彼女の入院中の振る舞いにもあったようである。
彼女を長年支え続けていたマネージャーの中瀬 華織(なかせ かおり)によると、雪夜は病室でも常に作詞作業は欠かさなかったそうだ。シングルやアルバムのレコーディングに向けての準備、構想を日々怠ることがなかったそうだ。
雪夜は大人しい気性だったが、ユーモアがある性格も持っていた。普段はあまり多くを語るタイプではなかったが、音楽に関しては別人と言えるほど猛烈な情熱を持ち合わせていたようだ。作詞、楽曲へのこだわりもさることながら、CDの発売日にまで強いこだわりがあったようなので、次回作に関しても、発売日まで逆算したスケジュールも組み立てていて、いつもカレンダーと睨めっこしていたらしい。
そのことからマネージャーの中瀬から見ても、とても自殺するとは考えられないと、警察からの聞き込みに応じている。
さらに、雪夜の死の前日にお見舞いに行った彼女が所属するレコード事務所の社長、古屋敷 凰助(ふるやしき おうすけ)が語るには、雪夜の体調は快方に向かっており、雪夜はそれを喜々として古屋敷に語っていて、作詞作業はすべてパソコンで作業をしていたため、パソコンに打ち込んだ次回作の詞を嬉しそうに彼に見せてくれたようだった。
中瀬華織の供述と同様に、雪夜はCDのリリース日にまで強いこだわりをみせていた。カレンダーをいつも気にしながら、何月何日までには絶対に間に合わせる!と会うたびに繰り返していたそうだ。
古屋敷凰助が言うには、それ以前から、微笑む雪夜の顔は何度も見たことはあったが、CDのリリース日の話をしていたときのように、白い歯を見せて笑う彼女の顔なんて、滅多に見たことが無かったらしい。つまりその笑顔には間違いなく悲観は一切なく、先々への明るい展望があったのだろうと古屋敷は言い切ったそうである。
主にこのふたりの話を紹介したが、それ以外に聞き込んだどの人物からも、彼女が自殺を図る様子にはとても見られなかったと警察に応じている。
ではなぜ政樹は、雪夜の死に対して『ある種の違和感』を抱いたのだろうか。
これも先の章にて彼の性格について紹介しているが、政樹は少年時代から探偵小説が大好きであり、猜疑心と懐疑心のかたまりという、非常に疑り深い性格を持っている。それゆえに過去に雪夜の言動や行動から推察するにあたって『ある種の違和感』を連想するに至る経緯がいくつかある。
それでは雪夜が政樹に語ったとされる彼女のエピソードを簡単に紹介する。
政樹がレコーディングスタジオでギターの弦を新しく張り替えているとき、雪夜が「それって危なくないですか?弦の張り替えって、よく見かけますけど、私はどうしても想像してしまうことがあって。・・・いやなんか突然、弦がプツッと切れて先っぽが目にグサッて刺さったりしないものかと。・・・そう想像してしまうと、その作業が怖くて見ていられないんですよね」
こう話すと彼女は両手で両目を覆った。その直後に「あっ!」と言うと「洗い物のときに、ガラスコップの内側をキュッキュッって強く洗う人っているじゃないですか。あんなのも、私は怖くって背中がゾワッてしちゃいます。・・・だって、パキッて割れてザクッて手を切っちゃうかも知れないじゃない?キュッキュッって音を聞いただけで怖くて、もう見るのも無理かも知れない(笑)」
身振り手振りしながら会話を表現する雪夜の動きは健気さもあり、万人受けするのも納得するような、愛猫に似た可愛さも持ち合わせていた。
それとまた別日のスタジオでの話になるが、雪夜が語るには「昔に見た学園物のテレビドラマで、ライバルの女の子が主人公の女の子のピアニスト人生を破滅させるために、ピアノの鍵盤と鍵盤の隙間にカミソリを仕込むんですよ。主人公が弾く曲中に力強く押さえるコードがあって・・・そこにカミソリを仕掛けるんです。で、そのコードをバンって押さえた瞬間に、仕込まれたカミソリで指をズバッて切るっていうシーンがあって」
そこまで話すと、雪夜は自分の手をプラプラと振って、痛そうな顔つきをして少しだけピンク色の舌を出した。
「私、それを見てから『鍵盤の隙間恐怖症』になってしまって(笑)。以降、私はどこのピアノを弾く前に、ハンドタオルを厚めにこうやって丸めて、必ず左から右へ、右から左にポロロロロンってやる癖が付いちゃったのね。・・・一見、周りから見たら鍵盤を拭いているだけの、ただの潔癖性なのかなぁって思われているのかも知れないけど(笑)」
そう言って口元を手で隠して笑う雪夜の顔は、CDのジャケット写真やプロモーションビデオに写る、クールそうな彼女の顔からは別人と思えるほどで、会話の中を擬音で例えるのが大好きな、少しひょうきんで柔和な、かつ心配性の女性な印象だった。
つまり、見方を少し変えてみると、雪夜は政樹と同様に、かなり慎重に行動をするようなタイプでもあったわけである。
政樹から見てもその印象がとても強かったので、いくら病中に気持ちが弱っていたにしても、落下の危険性の高いそんな場所で、しかも不利になるような体勢を軽率に取るのだろうか。そこに関して政樹はいつも疑問に思っており、かつ彼にはとても想像し難かった。
それらをひっくるめて考えると、雪夜の死に自殺も事故死も当てはまらない。
そんなトゲがずっと政樹の心に引っ掛かったままだったのである。
トゲを抜いてからは傷口が炎症し『ある種の違和感』という膿が出始めたのは、雪夜の死後から間もなくのことだった。
自殺でもなく事故死でもないのなら・・・。
政樹はこう考え始めると、元来の推理小説好きもあって、彼の猜疑心と懐疑心に歯止めはかからなかった。
そう・・・政樹が抱いている『ある種の違和感』とは、第三者が事故死と見せかけて雪夜を死に追いやったのではないか、ということなのだ。
しかしそうなると、誰がいったい何のためにという動機が判然とせず、ますます疑問が増えるばかり。
しかも肝心の警察は事故死と処理をしてしまった。そこで政樹は警察官である凡司に、雪夜が転落したときの捜査資料の見直しを依頼したのだ。タイミングよく刑事になった凡司に、政樹は大いに期待を寄せていた。美咲のマネージャー業と並行して、政樹は雪夜の死の真相を調べていたのだった。
政樹は家妻雪夜に対して恋愛のような憧れを抱いていたことは、ここまで読まれたかたならば、すでにお気付きの人もいるだろう。
では次回はこの点を掘り下げて、彼の雪夜に対しての憧れについて、もう少し解説を付け加えたいと思う。
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