南十字星と初恋 7「処女の咆哮」
- 2024.05.30
- 小説
・この話の主な登場人物
「富岡 政樹(とみおか まさき)」二十五歳:鳥海美咲の従兄でマネージャー、元ミュージシャン
「鳥海 美咲(とりうみ みさき)」十九歳:女優、政樹の従妹
「木戸下 玲華(きどした れいか)」三十五歳:政樹と美咲が所属する芸能事務所社長
美咲の記事が載っている週刊ターゲットが発売されると、やはり世間はざわついた。
美咲はまだ国民的女優などと呼ばれるほどの存在にはなかったが、記事のタイトル通り、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの女優ではあったので、やはり大方の予想通りTVのワイドショーなどでも取り上げられ、特にネットでは「裏切られた」とか「よりによって、どこのどいつか知らない奴に手をつけられるなんて最悪」「もう会社に行けない」などという、減滅させられた言葉が世間では飛び交っていた。
「男を部屋に入れたならヤルことはひとつだろ」
「あんな純粋そうな顔をしてて、ある意味で大した女優だよな」
こんな辛辣なコメントも多々あった。
「まだ若いんだし恋愛免疫も少ないわけだから仕方ない」といった、美咲を擁護する声も少なくはなかった。
売れっ子女優なだけに、こんな状況でも美咲は毎日多くの仕事をこなし、たくさんの人と関わらなければならないが、中には露骨な態度を出してくるスタッフもいたりする。
「この間の収録のときにさ、私って十九年間彼氏っていたことがないとか言っちゃってたけど・・・自分を飾り過ぎよね~!」などと、わざと本人に聞こえるように話されるので、仕事現場では美咲も政樹もひたすらお詫び行脚をしているような、これまでとは少し違った、別の種類の疲労を心身に溜めることになっていた。
そんなある日、ドラマ撮影のスタジオにある控え室にいたふたりだったが、そこに事務所社長の木戸下玲華がやって来た。
玲華社長は控え室に入って来るなり「ふたりとも大丈夫?・・・その顔じゃ大丈夫そうでは無さそうね」と言って、差し入れのコーヒーを机に置いた。玲華はお約束のモデル立ちであったが、表情には優しさを含ませていた。
美咲も政樹も、差し入れのコーヒーに手を伸ばすこともなく、なにも言葉を発することもしなかった。
「美咲、今度の映画の初日舞台挨拶はどうしようか。ここぞとばかりにメディアが集まりそうだから、キャンセルにする?」
しばらくうつむいていた美咲だったが、スッと顔を上げると「いえ。私は主演ですし、キャンセルするつもりなんて全然ありません」と意外にもキッパリと返事をした。
フフッと笑った玲華は「分かったわ。・・・でも言いたいこと以外は言わなくて大丈夫よ。マスコミに取り囲まれるわけではないから、質問はされるだろうけれど、まともになんか答えなくていいし。舞台袖にはマアくんもスタンバっているから、引き際のガードも万全よね?」と、玲華は政樹のほうに横目を送った。政樹も少し笑って軽く頷いた。そんなふたりの表情を見た美咲は、ちょっと安心したように微笑んだ。
美咲が主演を演じた『私と恋の最大値』の映画公開初日の舞台挨拶には、彼らが想像する以上のマスコミの数が集まり、当然客席も満席になっている。
美咲を含めたキャストや関係者が舞台袖に控えていたとき、美咲と共に主演をつとめた相手役の若手男性の俳優がこんな嫌味をぶつけてきた。
「美咲ちゃん、俺は君のフォローなんかしないよ。俺はこの作品に賭けてきたものがたくさんあるんだ。俺だけじゃない。監督もスタッフも全員だ。君の記事のことで、この映画のイメージを悪くされたらたまったもんじゃないから」
そう言われた美咲は、ただただ恐縮そうに頭を下げることしかできなかった。
美咲たちキャスト陣よりも後ろでその姿を遠めに見ていた政樹は、ますます赤田に対しての憎しみが大きくなっていた。しまいには、どうしてこの場のこのときに奴のことなんか思い出してしまったのか。そんな自分にもイライラして腹が立ってきていた。
始まった舞台挨拶は通常通りに進んではいるものの、やはり美咲のスキャンダルが常に背後にまとわりついているような、まるで魚の骨が喉奥に引っ掛かったままでいるような不快感が会場の空気を重くしていた。出演者や関係者、マスコミも観客も、いつあの話題が出るのかとジリジリしているようだった。
舞台袖の政樹は、さっきまでの腹立たしさよりも、今度は今にも吐き出しそうなほど胃がムカムカしている最中だった。
こんなとき、舞台上にいる美咲はいったいどんな心境なのだろう。
舞台上でニコニコとしている美咲には、こんな胃のムカつきは無いのだろうか。政樹は一層不安な気持ちに襲われていた。
イベントが進み、いよいよメディアの質問時間になったが、これが政樹が想像している以上に、マスコミからの質問はストレートに美咲を突き刺しに行くものだった。
他の出演者には、無難で当たり障りのない映画の出来栄えなどの感想を求めるのに対して、美咲には「鳥海さん!噂の彼氏との交際報道について一言お願いします!」「かなり親密なご関係のようですが、付き合ってどれくらいなんですか?」「先日の放送で十九年間彼氏っていたことがないと言ってましたがウソなんですか?そのことについて、ファンにコメントお願いしますよ!」
こんなメディアからの波状攻撃を、司会進行役の女性アナウンサーが上手にコントロールしてくれていたのには、玲華社長や政樹からしたら地獄に仏といった心持ちで、なんとかこの場をやり過ごせないかと神にも祈るような気分で舞台袖から見ていた。
ようやく舞台挨拶が終了し、出演者一同が舞台袖に引き揚げようとしたときが、美咲への乱射攻撃のピークになった。
「鳥海さん!なにかひと言お願いします!」
「ファンを裏切っておいて無視ですか!?」
「清純派で売ってましたよね!?それで自宅に男を連れ込むんですか!?」
「彼氏と朝までなにされていたのですか!?」
この会場にいた観客ですら、この異様な光景にどよめきが起こるほどだった。
それでも記者たちの攻勢はおさまる気配がなかったので、美咲を含めた出演者らは劇場のスタッフにかばわれながら逃げるように引き揚げ始めた。舞台袖にはもちろん、政樹も待ち構えていた。
すると突然、美咲は舞台を降りる階段の手前でピタリと足を止めてしまった。
その直後、壇上から美咲は取材陣の塊に向かって、こう叫び出した。
「あの男性とは何もありません!!・・・あの場には女友達もいました!!」
美咲の突き抜けるような声量は、水紋のような輪になって静けさを拡げていった。この場にいる全ての人たちが、美咲の剣幕に注目した。
そして間髪を入れず美咲はこう続けたのだった。
「私は・・・私は今までの人生で男性とふたりっきりで一晩過ごしたことなんか一回もありません!!」
最初は美咲が迫真の演技をうっているように見えたが、真っ赤に血走っている眼球と、メイクを弾き飛ばすかのように真っ赤に変わった形相に、会場の全ての人たちが次々と気圧され始めたのだった。
それでも美咲の最後の咆哮は、周囲の雑音の息の根を完全に止めるほどのものだった。
「私はまだ処女です!!・・・これ以外に・・・こんなこと以外になにか知りたいことが・・・ほかになにか、あなた方は興味がありますか!?」
この言葉には、さすがに会場全体がシンと静まり返ってしまった。誇張ではないが、会場にいたすべての人々が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔に変わっていた。
舞台袖でみんなと同じように、ただの傍観者のようになって固まって見ていた政樹だったが、脳裏に少しだけ冷静な部分が働いていた。
すると自分の記憶の一部が急に芽吹いてきて、過去の美咲とのある思い出の花をフワリと咲かせた。
それはまだ政樹も美咲も、故郷の石川県に住んでいたころの出来事だった。
政樹の一家は、お正月休みに美咲の一家へ出向いて毎年恒例の新年会を開いていた。
十七歳の高校生だった政樹からすると、親戚付き合いなんかより家でギターをひっかくか、大好きな推理小説を読みふけっていたい気分であったが、お年玉への期待感ゆえに、致し方なしに親に付き合って美咲宅へ来ているのだった。
にしてもつまらないので近所のショッピングセンターへ出掛けた。家を出る直前に美咲の母親、つまり政樹の叔母から「美咲も友達とそこに行っているから、もし美咲と会ったらお醤油を買って来てって言っておいて!」と面倒な伝言まで預かっていた。
政樹はやれやれといった気分だったが、ワイワイと酒盛りをしている大人たちと一緒にいるよりは、お使いに出た方が気持ちは幾分か楽になる。
新春で浮ついている店内をブラブラしていたが、ひとつ下のフロアがなにやら騒がしかったので、吹き抜けになっている場所から手すりを持って覗き込んでみた。
すると、明らかに見覚えのある少女が、男性店員ふたりと、警備員ふたりに取り囲まれているような格好でいた。さらにそれらを包囲するように、見物人の人だかりが出来上がりつつあった。政樹は何事かという疑問よりも、関わり合いたくないという警戒心が先に出ていた。
ところが無意識に政樹の足は現場に向かって動いていて、美咲から視線を一点も逸らすことをせず、下りのエスカレーターを進んで行った。
この当時十一歳だった美咲の状況だが、彼女は万引きを疑われていたのだった。
実際の万引きの犯人は美咲の同級生の女友達なのだが、店員の見間違いによって、先に店外に出た美咲のほうに疑いがかけられたようで、盗った盗っていないの押し問答が始まったらしかった。肝心の美咲の女友達(このあとに絶交)はというと、群がる野次馬のどさくさに紛れて逃げ帰ってしまったらしい。
野次馬の人だかりの後ろまでやってきた政樹だったが「その子は僕のいとこです!」などと、とても言えた度胸は微塵も湧かなかった。
美咲は恐れながらも気丈に「でも私はなにも盗んでなんかいません!」と小さな身体を自分で鼓舞していた。
「いいからいいから!早く事務所に来なさい!」と、それでも店員と警備員の四人は美咲に詰め寄っていく。
周りの人だかりの大半は明らかに、万引きをした少女が捕まっている、という見た目でしかその光景を捉えておらず、政樹もその中の一部分に過ぎなかった。
するといきなり美咲は思いもよらない行動に打って出る。
防寒の上着を脱ぎ捨てたのを皮切りに、次々と自らの衣服を脱ぎ始めたのだった。
あっという間に下着だけの姿になった彼女は、今度は靴も脱ぎ、靴下もはぎ取った。そしてついには、周囲の目もはばからず、上下の下着さえも脱ぎ捨てて素っ裸になってしまった。
そして両手両足を広げて「大」の字になってこう叫んだ。
「わたしはなにも盗んでなんかいません!!」
一瞬で周囲が静まり返った。
その場の全員が、度肝をぶっこ抜かれたといっても過言ではなかっただろう。
それもそうなのだが、見応えがあったのはこのあとだった。
それまでの野次馬たちの心情は、少女が万引きの悪事を働き、大人であって、それが正義でもある店員と警備員が万引き少女を捕まえるという、勧善懲悪が成り立っていたのにも関わらず、容疑者である少女が裸になっただけで、一気に形成が逆転してしまい、男性店員と警備員に対して周囲の目が、軽蔑の眼差しにガラリと変わってしまったことだった。
このときの政樹は無心だった。野次馬を押しのけて美咲の元に駆け寄り、自分の上着のコートを美咲にかぶせると、震える彼女を抱きかかえるようにしてその場から離れた。
このあとのことは彼もあまり憶えていない。
昔から美咲は・・・彼女はこういった性質を持っている。
やけっぱちにしては度が過ぎるような、振り切ってしまうような、そんな性質である。
「そ、それは本当なのですね!?」「では・・・お付き合いではないと!?」
美咲の剣幕に狼狽した取材陣の負け惜しみのような無意味な空質問に、ハッと我に返った政樹は、あの時と同じように関係者を押しのけて美咲に駆け寄った。
そして、自分の上着のブレザーを彼女にかけると、抱きかかえるように足早に舞台袖へ、そして控え室まで彼女を連れて行った。
そんな最中、政樹はあの時と同じだと思い出しながら、しかしあの時はか細く、頼りなく震えていた美咲の肩だったのに、今の彼女の肩はあの時と同じように震えてはいるものの、なんと逞しい肩になったのだろうかと、驚くほど立派になったと感心しきりであった。
すると美咲は政樹のほうをチラッと見上げると、眉を上げて少しだけ舌をペロッと出した。
政樹は思い知った。あのころの幼稚な彼女とは違っていて、美咲はもう立派な女優に成ったのだったと。
-
前の記事
南十字星と初恋 6「女優の教訓」 2024.05.30
-
次の記事
南十字星と初恋 8「女刑事登場」 2024.05.30