南十字星と初恋 9「N計画」
- 2024.05.30
- 小説
・この話の主な登場人物
「富岡 政樹(とみおか まさき)」二十五歳:鳥海美咲の従兄でマネージャー、元ミュージシャン
「奥屋 紗知(おくや さち)」二十六歳:週刊ターゲットの記者
「盾ノ内 凡司(たてのうち ぼんじ)」二十五歳:警視庁刑事、巡査、政樹の同級生
「道内 佳澄(どうない かすみ)」三十五歳:警視庁刑事、警部、凡司の先輩
「家妻 雪夜(かづま ゆきよ)」二十九歳(享年):シンガーソングライター
凡司がテーブルに差し出したのは、ノート型のパソコンだった。
「これが家妻雪夜が残したパソコンだ。これにはパスワードが設定されていて、未だに解読に至ってない。彼女の生年月日であったり、心当たりになる数字やキーワードを試したが、お手上げなんだ。・・・マサ、お前は短い期間でも家妻雪夜と仕事をした仲だろう?ほかにパスワードになるような心当たりはないか?」
家妻雪夜のパソコンに政樹は見覚えがあったので、急に懐かしくなった。彼女は常にこのパソコンを持ち歩いていた。スタジオでは、いつもにらめっこして作詞作業をしていた。確か病床でも使用していたと聞いていた。だがパスワードなんて心当たりがあるはずがなかった。
「いやぁ、分からないよ。例えば最後のアルバム名とか、新曲名とか・・・。雪夜さんしか知らないキーワードだったら解読なんて、そもそも無理だろう」
「だからそのあたりもあらかた試したさ。身近な人物だからこそ浮かぶパスワードはないかってことよ。昔からお前は推理小説とか好きだったろ?なんか閃かないか?」
「う~ん。・・・俺もお前からパソコンの話しを聞いてから色々と考えたけれど・・・ちょっと試してみても良いか?」
政樹は雪夜のパソコンに初めて触れた。すでに凡司にベタベタ触られているパソコンを、少し気の毒に思った。とりあえず、政樹が思い当たる節を試してはみたものの、パソコンは開くこと無く、エラーの反応しか見せてくれなかった。
「これって、確率で言ったら天文学的数字になるんじゃないですか?」と、白玉抹茶小豆の白玉を頬張りながら、奥屋記者は呆れながら笑って見ていた。
「それを言ったらお終いでしょうに。・・・紗知さん、口の周りにあんこがついてるよ」と政樹は呆れ返すと、不意に佳澄警部が初めて言葉を発した。
「闇雲は不効率ですね。富岡さん、家妻さんはどのような方だったのですか?」
道内佳澄の声が、まるでアニメの声優にいそうな感じな声質で、意外に可愛いらしかったことに、政樹と紗知は一瞬だけ目を丸くして彼女を見た。だが政樹だけは、なんとなくどこかで似たような声の持ち主と出会っているような、聞き覚えがあるような声質な気がして、ちょっと不思議な感覚が残った。そして、佳澄警部の質問にこう返したのだった。
「雪夜さんですか?・・・まぁ本当に仕事には真面目で熱心で、でも普段は用心深いところがあって、可愛らしいところがあったり。特別に感じたのは、自分の歌詞をとても大切にしていましたね。作詞の作業ひとつでも、とても大事に大事に、一言一句を紡いでいましたから。詞に対しての思い入れは強かったと思いますが・・・」
こう改めて話すと、妙に照れくさくなってしまって、その先をうまく表現できずにいた政樹に、凡司は賺さずに茶々を入れた。
「先輩!マサは家妻雪夜に憧れて音楽業界に入ったんスよ。高校一年生で好きになった歌手に憧れて、音楽業界を目指した男なんスよ!」
「お、おいおい!俺は中学から音楽はやっていたんだ。・・・別に全部が彼女の影響ではないよ!」
「ボンくん。いまの私は、そんなことを富岡さんに聞いているのではありませんよ」
佳澄先輩は静かに凡司を諭したが、微妙に圧を加えるような粘っこい言いかたをしたので、一同は一瞬だけ固まってしまった。が、間髪入れずに彼女は、彼らがもっと驚いてしまうような一言を放った。
「彼女は・・・家妻さんの身長はいくつでしょうか?」
『身長!?』と佳澄以外の三人が声を揃えた。
その内の一人である政樹は、とっさにパソコンに「1」「6」「6」「c」「m」と打ち込んで「Enter」キーを叩いた。
するとどうだろう。雪夜のパソコンは久しぶりに目が覚めたことを喜んでいるかのように、柔らかな起動音を和食店の個室内に響かせた。
「開いた!!」と政樹は叫んだ。
驚いた奥屋記者は、白玉を喉に詰まらせて目を白黒させて大変だったが、そんなことはほったらかしに、政樹と凡司は互いの頬をくっつけるかのようにパソコンに食い入った。
雪夜のパソコンのデスクトップには、様々なアプリや題名の入っているファイル、ブックマークなどが並んでいたが、まず凡司は、先輩がどうやってパスワードを閃いたのか、そのことのほうが先に解明したい謎になっていた。
「せ、先輩!どうして身長がパスワードだって思ったんですか!?」
「その前にボンくん。きみは家妻さんに思い当たるワードを試したと言ってたけれど、どうしてこれは試さなかったの?」
「い、いやぁ・・・ネットで確かに彼女のプロフィールに身長は出てはいましたが、こんな単純なパスワードだったはなぁ・・・」
喉に詰まった白玉を、この店特製で大人気のミルクセーキで流し込んだ奥屋紗知が「で、どうして身長がパスワードだと?単純ではありますけれど、一発で閃くなんて信じられない」と、苦しそうでもなんとか言葉を絞り出した。
「私は家妻さんの生前の活躍は存じておりませんでしたが、このたび彼女の楽曲を、歌詞カードを目で追いながら全てを拝聴しました。そのあいだ彼女の詞に多く登場していた言葉をチェックしてみました」
すると警部は、スーツの内ポケットから折りたたまれた、一枚のA四サイズの用紙を取り出して、それを開いて丁寧にしわを伸ばしてから、彼らの前に差し出した。そこには家妻雪夜の歌詞に登場する言葉が、ランキング形式で記入されていたのだ。
「一番多く使用されていた言葉は『等身大』。次に多かったのは『今』そして『心』と続きます。『等身大』という言葉は、ありのままの自分とか、ありのままのあなた、そういった表現をするときに用いますが、第一に、自分の身長と同じ大きさ、という意味があります。先ほど富岡さんが、家妻さんは歌詞をとにかく大切にされていた、とおっしゃっていましたから、直感でこれかなと。まぁこれがハズレていたとしても、あと何個かパスワードの候補はありました」
その他一同は動きを止めてしまっていたが、全員が思ったことは、自分たちだけではパスワードを解除させることは到底無理だったかも知れない、ということ。それともうひとつは、この人の推理力と閃きは抜群である。そんな思いで一杯になっていた。
しかし彼らの、そんな感心は束の間だった。この次に立ちはだかるハードルは一筋縄ではいかないからだ。道内刑事は当初から目を付けていた家妻雪夜のパソコンの中に、きっと重要なデータが隠されていると踏んでいたので、パスワード解除なんかは、序の口に過ぎなかったのだ。
「それよりも富岡さん、そのパソコンのファイルを開いてもらえますか?・・・それで表示の中の『隠しファイル』にレ点チェックを入れてください」
政樹はこう指示を出した警部に言われる通りにクリックを繰り返した。すると、さっきまでデスクトップ上になかったファイルが出現した。そのファイル名は『N計画』とタイトルされていた。
「なんだこれ?」と凡司は言うと、すぐに政樹はファイルを開こうとクリックした。ところがパスワード入力のダイアログボックスが開いてしまい『またパスワードか!』とその他一同の三人は、また一緒のタイミングで、あっけらかんとしてしまった。しかし能天気な凡司刑事は、頼れる道内刑事に「先輩!これもお願いして良いっスか!?」と調子づいて頼んでみたが、彼女はほんの少しだけ眉間にしわを寄せて「分からないわ」と不快そうに即答した。
またまた一瞬だけその場が固まったが「じゃ、じゃあこれこそ雪夜さんにまつわるキーワードを、片っ端から攻めていってはどうでしょうかね?これだけネタは揃っている訳ですし」と政樹は、佳澄警部の作成した歌詞のランキング用紙に指を差した。すると佳澄は「ちょっとパソコンを見せてもらって良いですか?」と立ち上がった。
座っていると小柄に見えていた警部だったが、立ち上がってみると、黒のパンツスーツの脚はスラリと長く、案外身長が高かった。どうやらスタイルが良く見えたことに、政樹と幼児体型がコンプレックスの紗知は、目を丸々として黙って見上げていた。政樹は、やっぱりどこかで似たような人と会ったことがあるような感じを再び思い起こしていた。
佳澄警部はパソコンの前に正座すると、右手の握りこぶしを下唇に触れるか触れないかの位置に当て、少しの間だけ考えると、おもむろにキーボードを数回スムーズな手つきで打ち込んだ。その他一同は期待の眼差しで警部の後ろからディスプレイをのぞき込んだが、残念ながら「パスワードが違います」と表示されてしまった。
凡司は「さ、さすがにまた一発で当てるのは厳しいっスよね。色々と試してみましょうか」と、気を取り直すように先輩を気遣った後輩だったが、先輩から返って来た言葉は「このファイルは特殊なソフトでロックがかかっているから、あとパスワードを試せるのは・・・さっき私が失敗したので、あと残り二回ね。・・・あと二回で解除できなかったら、たぶんこのファイルは消滅するようにプログラムされているはず」という、一同を焦りに一気に引きずり込むものだった。
「ち、ちなみにさっきはなんと入力されたんですか?・・・さっきの以外に、なにかパスワードが思いつきせんか?」と政樹は尋ねてみた。
「私が先ほど入力したのは彼女のデビュー曲『openyourheart』と入れましたが、まったくの見当外れでしたね。恐らくこのパスワードの解読は、今現在の私たちでは不可能だと思われます」
一気攻勢を考えていただけに、不可能と断言されてしまった政樹には、これ以上に返す言葉は見つからなかった。
奥屋記者が政樹に改めて問うてみた。
「でもこのパスワードを解読するって、どうすれば。・・・さっきも私が言いましたけど、確率は天文学的数字になりますよね?」
「う~ん」と唸った政樹だったが、とある日のスタジオでの雪夜との会話をふと思い出していた。
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「私、暗号とかって好きなんですよ。例えば携帯電話のパスワードもそうだけど、銀行口座の暗証番号とかって、私のは簡単に解読できないようなキーワードにしてるんですよ」
「へぇ、暗号って・・・どんな感じのなんですか?」
「よく設定するのは・・・自分の誕生日、その西暦とか、年号だったりの数字を組み合わせたりするでしょ?数字しか設定できない場合でも、アルファベットでも設定できる場合でも、両方どちらでも暗号化させるルールを自分で作ったの」
「え?・・・それってどういうことですか?」
「詳しく教えちゃうとなぁ・・・私のパスワードとか暗証番号とか、いろいろ解析されちゃうから言わないけれど」とイタズラっぽく笑ったあと。
「例えば『ある数字の羅列』をアルファベットに変換するのね。で、そのアルファベットを『ある法則』にのっとって、ひらがなに変換する。で、さらにそのひらがなをローマ字に変換するの。・・・その逆バージョンもあって、ローマ字をひらがなに、ひらがなをアルファベットに。そしてアルファベットを数字に変換するパターンもあるわ」
「へぇ・・・なんだかサッパリついていけないですよ(笑)」
「でしょ?・・・作りたいパスワードや暗証番号のタイプによって使い分けてるの」
「ぜんっぜん分からない・・・なにかヒントはないですか?(笑)」
「え~・・・数字の『6』は・・・ローマ字で『ha』になるかな」
「・・・やっぱりぜんっぜん分からない」
「フフフ・・・でしょ~?」と今度は勝ち誇ったように笑っていた。
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雪夜さんが言っていた『ある数字の羅列』ってなんだったのだろう?・・・『6』が『ha』??・・・いま考えてもサッパリ分からないや。
「富岡さん?・・・なにか思い出しましたか?」と奥屋記者が政樹の顔を覗き込んでいた。
「あ、いやいや。なんでもないです」と政樹は気を取り直し「ですよね。・・・とりあえず、せっかく雪夜さんのパソコンも開けたので、もう少し手がかりがないか、このパソコンを調べてみますよ。ボン・・・いや道内さん、このパソコンって僕が持っていてはマズイですよね?」と政樹は怒られそうな心持ちで、肩をすぼめながら警部に伺いを立ててみた。
「本来は認められません。そもそも私たちが本庁からこのパソコンを持ち出したこと自体が問題になりますからね」
道内刑事は冷たい表情でこう言ったが「まぁでもあとで問題になったら責任を取るのはこの私です。富岡さんが個人で管理するのであれば構いません。ただし、本当に肌身離さずにお願いしますね。万が一なにかありましたら、このボンくんにも責任が及ぶと思いますよ」と後輩を見ながら、一瞬だけ笑ったように見えたが、政樹と紗知が、あっ笑った!?と思ってよく見たときには、もうすっかり元の真顔に戻っていた。
「先輩!それは勘弁してくださいよぉ!せっかく本店の刑事になれたんスから。・・・マサ!お前マジで頼んだからな!」
そんな凡司の嘆きは、政樹の耳には入って行かなかった。そんなことよりも政樹は、佳澄に会う前から一番聞いてみたいことがあったからだ。
「道内さん。・・・道内さんは、どうして雪夜さんの死に疑問を感じたんですか?」
こう政樹は聞いてみたが、佳澄警部の表情にはあまり変化もなく、紫色のレンズが入った金縁眼鏡のせいで、彼女がどこに目線を置いているのかも掴めず、彼らに一瞬だけ緊張が走った。やや沈黙があり、警部のアニメ声に乗せて出た言葉は、彼らがこの数十分間に作り上げた彼女の印象とは、また違ってかなり独特なものだった。
「疑問・・・ですか?いえ、疑問と言えば疑問ですが。・・・ただ私は興味を持っただけです。私は家妻雪夜という人の死に方に、非常に興味を持った。あとひとつ付け加えるとすれば、彼女の死に違和感を覚えた。ただそれだけのことです。音楽業界のトップアーティストだろうと、そうではない一般的な生活を送っている人であろうと、そんなことは関係はなくて、ただ私はこの人の死に方に興味と違和感を持った。それだけのことですよ」
こういう言い方をされてしまうと、ちょっと突き放されたような、嫌な感じの突っかえが胸にぶら下がってしまう。しかし警部は警部としての勘が働いているからこそ興味を持ったのに違いなく、政樹はやはり彼女に期待を持って改めてこう確認をとった。
「それはつまり、僕らが持っている違和感と同じで、雪夜さんの死は事故死ではなく、事件性が隠されているのでは、ということですよね?」
この問いに関しては、彼女はこう答えた。
「ええ。家妻さんの転落死は、事故でも自殺でもない可能性があります。ですが、あくまで可能性の話ですよ」
やや間をおいてから、こう付け足した。
「では他にどんな可能性があるのか。突拍子もない話になってしまうかも知れませんが『ある種の殺人』とでも言えば良いのでしょうか」
一同の顔色が、ガラッと変わった。
「このさき、お話してもよろしいでしょうか?」
警部のこの言葉に、その他一同の三人は、思わず固唾を飲んだ。
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