南十字星と初恋 最終話「続・ある種の違和感」

南十字星と初恋 最終話「続・ある種の違和感」

 

政樹がオーストランドへ来てから、一年が経過していた。

彼が住んでいるアパートには、広い屋上がある。

夜空には雲ひとつなく、とても数え切れないほどの星々が広がっていて、見上げていると足がすくむようで、目の焦点が合わなくなるくらいの星の数だった。

少しさきにある、ノスタルジア病院群の数々の病棟の窓の灯りだったり、赤く点滅する航空障害灯だったりが、天井の夜景を地上からも彩っていた。

 

そんな景色が一望できるアパートの屋上で、政樹は真新しい木製の椅子に座り、ギターを足に乗せていた。

ひと呼吸おいてから、政樹は「南十字星と初恋」の出だしのアルペジオを弾き出した。

 

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星空の下で交わした約束 遠くの星が教えてくれた

君の笑顔が眩しすぎたこと 初恋の日々が心に残った

夜空の輝きが二人を照らして⁡ 時が止まったように僕らを包んでいる

⁡南十字星が導くように⁡ 星の軌跡が照らす恋の道しるべ⁡

青く澄んだ夜空の下で⁡ ふたりの愛は初めて芽生えた 

いつまでも一緒にいるよ 永遠の愛を誓いあおうね⁡

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「ちゃんと歌えていたかな?」

「歌えていたと思いますよ。でも少し・・・声質が変わりましたか?」

「なんかね、ずっと眠っていた時期があったでしょ。だから長く声帯を使わなかったものだから、以前の私の声質と、ちょっと変わってしまったようなのね」

「でも、とても澄んでいる感じがしましたよ」

「フフ、病気も悪いことばかりじゃないかもね」

雪夜は両手を上げて、大きく伸びと深呼吸をした。

「これってすごい贅沢だな」と政樹。

「え?」

雪夜は動きを止めて、まん丸い目をして政樹のほうを見た。

「南十字星が見えるこの場所で、雪夜さんとこの曲を演奏できるんだから」

政樹はこのとき、きれいごとを言った。

 

雪夜はそっと、腰のあたりで後ろ手を組み、顔をあげて少しだけ背伸びをした。

その姿を政樹は、直後から眺めていた。

雪夜の黒く長い髪が、ときおり吹く暖かい夜風にあおられながら、星の光の反射も手伝って、艶やかになびいている。

少し大きめの白いTシャツ、なんてこともない普通のブルージーンズ。

ありきたりな姿なのに、なんて唯一無二な存在なんだろう。

政樹はずっとそんなことを思っていた。

 

「あ、あれ?」

雪夜は屋上の柵に身を預けながら、ノスタルジア病院群のほうに人差し指を向け、なにかを数えているようだった。

「どうかしたんですか?」

「あのさ、私がいた病室って、あの病棟だったよね?」

「いや、あれは第六病棟ですよ。雪夜さんの病棟は第七病棟。その隣の、あそこです」

政樹は雪夜の隣まで行って、指先の角度を修正するように、雪夜の腕をゆっくりと動かしてあげた。

「あ、そっか。だから病室に電気が点いてたんだ。あ~あ、嫌だなぁ、またあそこに戻るの」

「今回は仮退院ですけど、もうじき正式に退院じゃないですか。あと少しの辛抱です」

「だけどさ・・・あっ!」

と言って、雪夜は危険を感じ取ったかのように、屋上を囲う柵から、その身を後ろに、一歩だけ下げた。

「どうかしました?」

不思議そうな顔で雪夜を見た政樹だったが、ハッと気が付いた。

「だってさぁ・・・」

と、雪夜がこのあとの言葉を話す前に、政樹が声をかぶせるように口をはさんだ。

「もしこの柵が外れちゃったら大変・・・ってことですよね?」と政樹。

「そう!バキッと外れちゃったら、ビュンって落っこちちゃうから、いまの態勢は危ないよね!」と言ってから、口元を手で隠しながら笑う雪夜を見て、同時に政樹も可笑しかったものの、実はグッと来るものを必死に押さえ込んでいたのだった。

今にも、むせび泣きそうなのを堪えていた。口角がヒクヒクしているのが雪夜に悟られないように、奥歯をきつく噛みしめていた。

まさかこうやって、また自分の目の前で、雪夜が満面の笑みを自分に与えてくれるなんて、本当に夢にも思っていなかったから。

政樹は人生で生まれて初めて、嬉し泣きというものに遭遇していた。これは彼にとって、初めて吹き上がって来た心の感情だったのだ。

 

「ところでさ、政樹くんが私のパソコンに入っていたファイルの暗号を解いたんだよね?」

「え?・・・はい、そうでしたけど」

政樹はまだ、いささか声が震えてはいたものの、なんとか応えた。

「暗号の意味、分かった?」

「玉手箱・・・なんとかってやつですよね?・・・意味ですか?暗号の?」

政樹は素っとん狂な返事をした。

「えぇ~?・・・」と意外そうに、残念そうな反応を見せる雪夜。

「あの暗号に、意味なんてあったんですか?」

政樹はそう言うと、眉間にしわを寄せてキョロキョロしながら考え込んでしまった。

(あの暗号を解いておいて、意味は分かってなかったのねぇ・・・鈍感?)

雪夜は政樹に少々呆れながら、また再び両腕を広げて大きく深呼吸をした。

なぜかというと、このとき雪夜自身も胸の奥が詰まったような、病的ではない優しい痛みが走っていたのだ。

これがどんなものなのか、雪夜はさすがに理解していた。

 

政樹は雪夜本人に、これまでの深田光憲が企てた一連の事件に関して、すべてを教えているわけではなかった。

それは彼女に与えるであろう精神的負担に配慮した部分もあるが、政樹が抱えている少しの疑問があり、それが雪夜にすべてを話し出せずにいる理由となっていた。

しかし、これは政樹の生まれ持っての猜疑心だったり、懐疑心だったりがそうさせているだけであって、恐らく杞憂に終わることだろうと、政樹は高を括っていた。

ところが、雪夜のたったひと言から、それがまた政樹に『ある種の違和感』を生み出すきっかけを与えてしまったのだった。

雪夜はアパートの屋上からの夜景を望みながら、こう政樹に言った。

「ちょっと・・・無理矢理だったのかな」

このひと言から、政樹が抱えていた少しの疑問、つまり、雪夜自身が実は深田光憲の企みを知ったうえで、ノスタルジア計画を承諾したのではないかということだった。

やや政樹の心拍数が早まってはいたが、動揺するまでには至ってなかった。やはり彼の現在にある心境の大半は、雪夜と共に過ごせているこの時間が、いかに幸福感に包まれているかということに埋め尽くされていたので、再び生まれた『ある種の違和感』は、ほんの些細なことの一部に過ぎなかったのである。

が、いずれこの違和感は後々に増幅し、己の猜疑心を搔き立てていき、ついには雪夜を追及してしまうのではないかという、一種の覚悟にも似た決心が、彼の中に刻まれた瞬間でもあった。

しかし、そんなことも問題ではなかった。

 

政樹は、また雪夜の声が聞こえているだけで良かった。

こうして同じ場所で、もう一度同じ空気が吸えているだけで幸せだった。

雪夜が生きていてくれていて、本当に良かった。

もうこれしか感じていなかった。

 

雪夜は黙って彼に背中を見せたまま、温かい夜風に吹かれていた。

そんな雪夜の背後から、また政樹は「南十字星と初恋」の出だしを弾き出した。

雪夜はさっきと違って歌い出さなかった。

不思議に思った政樹は、目線を手元のギターから、雪夜のほうへと向けた。

すると雪夜は顔だけ振り返って、政樹を見つめていた。

ただ黙ったまま、無表情で、なにも言わずに、優しく、涼しげな視線で彼を見おろしていた。

雪夜の向こうに広がる夜空には、南十字星がチラチラと輝きを放っているのが見えていた。

 

大切な人がこの世を去るということは、もうその人には二度と会えないということ。

当然、声が聞きたくたって、話をしたくても、触れたくても、同じ空気を吸いたくても、それはもう二度と、永遠に叶わないのだ。

この地球上をくまなく調べ尽くしたとしても、全宇宙をくまなく探したとしても、その人とは永遠に会えない。

どんなに心の中で、遺影の前、仏壇の前、墓前で語りかけても、死した人はなにも答えてはくれない。

死すれば姿も形もなくなって、もうその人とは永遠にお別れになるのである。

ただ残るのは、自分の記憶の中にだけ。

一緒に過ごしていた時間は夢だったのではないか。

そう思ってしまうほど、もう取り戻せない時間の喪失感というものは絶大なのである。

新しい思い出は、永久に作られない。

大切な人の死というのは、決して抗うことができない人生の非情な一面を知らしめられる。

さらに残酷なことに、生きている者はそれでも日常生活を送らなければならないことである。

己が泉下に招かれるまで。

 

 

おわり

 

冒頭でもご説明しましたが、この物語は筆者の願望を元に創作したものです。

モチーフにした女性シンガーソングライターが、今も何処かで元気に暮らしているだろうという願望である。

きっと何処かで、誰にも気付かれることもなく、悠々自適に幸せに暮らしていて欲しい。

彼女の、いちファンとして、どうしてもこの物語を形にしたかったのです。

この気持ちをご理解いただけるとは思っておりませんが、何か似た感情をお持ちの方がおりましたら、少しはご共感を得られたのでは、と願うところであります。

最後までお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。