死後(葬儀記含む)
- 2024.07.30
- 小説
死後(葬儀記含む)
読者の皆さんのみならず、誰しもが一度は考えた事がおありでしょう。
人間は死んだらどうなるのか。
自分が死んでしまったらどうなってしまうのかを。
一旦それを考え始めると、さっきまでの眠気が飛んでしまったので、こうして手記の続きを書く事にしました。
死後に関しては、自分の希望というか、要望を想像をする事が多いはずです。
死後の世界とは、天国とか地獄とか、今はそう言う事は少し省かせて頂くとして、先に亡くなっているご先祖様や、親戚の方々と再会したりして、痛いとか苦しいとかも無い世界を想像してしまいがちです。
若い方はご存知ないかも知れませんし、既に鬼籍に入られておりますが、名俳優の丹波哲郎さんの映画「大霊界」のような世界では、それは皆、和気あいあいと、人間社会の延長のような世界が用意されているとか。
それはそれで楽しいかも知れませんが、私は現実問題として人間関係が苦手で、仕方なく無理矢理コミュニケーションを取る為に、人前でたまにおどけてみたり、分かっている素振りをしてみたり、結局は見栄を張って自分が疲れてしまうような馬鹿な所がありますので、ですから死んでからも人間関係が続くという世界設定には、いささか抵抗があるのです。
私個人的に、人間関係に疲れた時に想像してしまう死後の世界とは、「全くの無で結構だ」という一言に限ります。
感覚的には、眠っている状態の延長、と想像してもらえると簡単です。眠っている時には、夢の中で稀に、これは夢だからサッサと覚めちまえば良いのにと思わない限り、自分が今眠っているという現実を認識する事はほとんど無い。つまり無意識の状態なので、例えば手術を受ける時の全身麻酔がかかっている時と同じ状態です。
これほど楽な死後は無いと思います。
これならば、自分は死んでしまったとか、自分は死んだけれども、この後ってこれからどうなるのだろうとか、そんな不安とも無縁になるので、痛くも痒くも怖くも、一切、何も無い。
では今現在の私のこの「意識」というものは、一体どうなってしまうのだろうか。いや、無意識だからこそ、そんな事すらも考える暇も無いでしょう。だとすると、無意識ってどんな状態なのであろうかと悩みに入ります。
こう想像すると、これも例え話になりますが、宇宙の始まりがビッグバンであって、その超強大爆発によって宇宙空間が拡大して、銀河系が出来て、惑星が出来て、地球が出来上がって・・・。いやいや、ではそのビッグバンが起こる前に、そもそも「そこ」には何があっただろうか。では「そこ」で何が元になって、ビッグバンは起こったのだろうか。
考えても答えが出ないので、頭がこんがらがってしまうのですが、それと同じように、実際には死後も分かっていないので、怖かったり不思議だったりして、余計に神秘的だったり、好奇心が湧いたりもする。
もう一つだけ仮に、これはあくまで宗教的な考えですが、人間は死んだら「魂(今後もちょくちょくこのワードは出てきます)」だけになって、ふわふわとそこら辺に漂って、四十九日が来たらあの世に成仏して、大きな魂と一つになって、また生まれ変わったりする。こう仮定しましょう。
単純に考えれば「ハイそう言う事ですか」と腑に落とせるが、ちょっと待て。魂になって「ふわふわ」と仮定すると、今度はその魂になった自分を想像してみましょうか。
ちょっとその前に、今の私は当然と生きているので、つまり肉体を持って生態活動をしている。眼で光りを感じて、耳で音を聞いたり、呼吸をして、脳からの電気信号でもって、身体を動かして物を触ったり。要は物理的に生活をしている。ところが、魂になってしまった自分を想像してみるとどうだろうか。魂とは、物質的なのかそれすらも仮定できないが、つまり魂になると、息を吸ったり吐いたり、角膜を通して見ていた景色とか、鼓膜を震わせて聞こえていた音とかは、その五感は一体どうなっているのだろうかという、新たな疑問にぶつかります。
そんな事を真剣に考えていると、実際に息が苦しくなり、うまく呼吸が取れなくなって、死に脅迫されたような、圧迫された状態に陥りそうなので、結局は深くは考えられなくってしまう。
どうして私が今その事を思い悩んでいるのか。それは後々に説明するとしますが、そこには印象を深めた、きっかけがありました。
あの時、私は一人で、祖母の景子(享年八十八)が永眠に入った棺の前に座っておりました。
もちろん、たった一人でと言うのは、この時だけであって、通夜に参加している私の両親や姉、叔父一人や叔母二人。その配偶者、それに祖母の孫世代である私の従兄弟ら、更にその子供である曾孫らも揃っての、親戚一同(寄せ集めると総勢三十人ほど)は、別室の座敷にて、寿司を食べたりする者、酒を飲んだりする者、幼い曾孫らは、かけずり回って遊んだりしていた。
叔父、叔母らが生前の祖母景子の話で、あの世でお父ちゃん(私の祖父の福助の事)に会えているだろうとか、そんな話をしんみりとしておりました。
通夜は、檀家である埼玉県の川口市にある寺で執り行われました。
過去に祖母の母ツル(享年九十四)と、祖父の福助(享年八十三)の葬儀もこの寺で執り行ったが、取り仕切る住職は、年齢は六十歳くらいで、お坊さんらしくツルリと頭を丸めていて、品の良さそうな丸型の銀縁メガネをかけていた。法衣を纏っているせいで、その身体を大きく見せているが、たっぷりとした二重あごを見れば、法衣の下の肉体も丸々と肥えているのも容易に想像できました。
曾祖母と祖父、過去二回の葬式の時、一度目は曾祖母ツルの時、私は中学一年生であり、二度目の祖父福助の時は二十歳であったが、その二回とも同じような疑問を抱いた。それは、そもそも住職、つまり仏門に携わっている人間は、厳しい修業の日々の連続なのに、この住職はどうしてこんなに丸く太っているのだろうかと、率直に思っていた。
この住職は奥さんも子供も居て、高そうな車にも乗っていた。中学生の私は、若いなりにも不思議に思ったが、それはまだ私が若かったからであって、祖父の葬式の時分には三十三歳になっていたからして、お寺の住職という「職業」については、ある種のビジネス的な要素を含む、一定の理解を納得するに至っており、今現在は、前よりもその住職を見る目は厳しくはなっていない。
そんな住職のお経の後、私もお堂から離れた別室の座敷に居て、食べたくもない不味い(気分的に。味は旨い)寿司だとか、この時は車の運転係でもあったので、酒が飲める訳もなかったから、普段では絶対に飲まないであろう、瓶に入ったオレンジジュースを、さほど透明感の無い薄いガラスコップで飲んだりしておりました。
しかし、ワイワイと騒がしいこのお座敷から、長い廊下を進んで左に折れた先にある、キンキンギラギラとした広いお堂の中心で、須弥壇の日蓮大聖人像の元で見守られながら眠っている、祖母の景子一人だけを棺の中に残しているというこの現状に、どうにもこうにも心持ちに限界が来て、そっと座敷部屋を抜け出して、祖母が眠る棺の前にあった肉厚な座布団に腰を下ろしていたのです。
先の通り、祖母は八十八歳で往生しました。
戦争を経験している世代でありましたから、幾多の苦労もあった事でしょう。第一子を産んだ直後には、自宅近くに米軍の爆撃機から一トン爆弾を投下され、防空壕に居ながら生き埋めになる所を、必死になって赤子を抱きながら這い出たそうです。爆撃の一報を受けて驚き焦った若き祖父は、勤務地から十数キロの道程を、当然鉄道が止まってしまった為、走って帰ったとか。四人目の子である私の父をお産した時には失神してしまったそうですが、そんな時、お産婆さんに熱湯を口に入れられて、二度三度と頬を叩かれて、ようやく覚醒したそうです。
私の幼少期には、これはこれは本当に沢山の思い出があります。
お正月には親戚一同が祖父母の家に集まって大きな新年会をあげたり、夏休みになれば泊まりにも行きました。夏祭りに連れて行ってもらったり、街に行ってゲームソフトを買ってもらったり、夜は近くの空き地で花火をしたり、しかしこれらのお話は別の機会にして割愛させてもらいますが、とにかくよく面倒を見てもらいました。
父が車で迎えに来ると、「帰りたくないなぁ」なんて毎回しんどくなったものです。帰る間際、車に乗り込んだ私の手に、必ず千円札を握らせてくれました。「また来いよ」と優しく笑ってくれて、車が曲がるその時まで、ずっと手を振って見送ってくれるのが恒例でした。
晩年の祖母はアルツハイマー病もあって、私の事どころか、自分自身の子供や、亭主であった福助の名前すら、すっかり忘れてしまっており、まるで純情で幼女のような、朗らかで愛くるしい性格に戻って旅立ちました。
棺の中の景子は、死亡して一日以上が過ぎ、死後硬直が解け始めたからか、顔の筋肉が緩んで、引力で顔の皮膚が引っ張られて、顔を刻んでいた無数の皺は、すっかり伸びきってしまい、次女である私の叔母、友美が塗った真っ赤な口紅と頬の桃色がかったチークがヤケに目立っていて、古い中国人形のような、そんな可愛らしい面持ちになっておりました。
その顔は、私の知っている祖母とは明らかに違っており、まるで別人のようでしたけれど、「あなたが居なければ、今の私たちは間違いなく全員が存在しなかった。ありがとうございました。これまで本当にお疲れ様でした」と、今ではたくさんの花々に、顔の半分が埋まってしまっている祖母を、真上から覗きながら、私は一人でポツリポツリと伝えました。
さて、人間は死んでしまったらどうなってしまうのだろうかと考えたのは、そんな時の事だったのです。
翌日は告別式を終えてから火葬場へ。私はこの場所が苦手であります。まあ得意な人の方が珍しいでしょうが、線香の匂いと、それと断言は出来ませんが、人が焼けた後の匂いが混ざっているような、そんな独特な空気が鼻に付いて離れなくなるのと、棺を取り囲む喪服姿の一団と続々とすれ違うたび、どれだけの人が、毎日毎日人生を終えているのだろうかと、そう思うと益々、死後という事柄に、恐れと興味が、まるで混ざり合わないマーブル模様のようになって、脳内をかき回してくるのでした。
火葬場が苦手な理由はまだあって、実はこれが一番嫌いなのですが、火葬炉がある炉前室に入った時です。
火葬炉が六機ほど、どこか大きなデパートとかホテルのエレベーター(上手く言えば天国へのエレベーター)のような構えで、しかし、一切の華やかさは当たり前に無く、冷蔵庫のように冷え冷えとした空間をしていて、低い機械音がゴウンゴウンと唸っております。
ああ、ここに入ったら本当に最期の最期。いよいよ形があった人間が、人間の形で無くなってしまう時が来るのです。それが、愛おしければ愛おしい存在なればこそ、尚更に悲しみが増幅、倍増されて、胸をかきむしられるような、膝の力が抜けて、地に足が着かなくなるような、狂おしいほどの悲痛の大波が、何べんも何べんも全身をしごいてくるのです。
何かの使者のような格好で、完全に感情を押し殺している火葬場の係員が、帽子の天辺を我々に見せると、住職の揺らす鐘の音と、鼻にかかった野太い声の南無妙法蓮華経が、炉前室内に乱響します。エレベーター(?)の扉が開くと、そこにいよいよ棺が入れられてしまい、分厚い二重の鉄扉が次々に、ドシン、ドシンと閉ざされます。
ここで私はいつも想像するのです。
いつか私にもこの時が来るのだ。絶対に来るのだ。出来れば、死んだ後に意識と言うか、魂があったとしても最低限は、己の肉体からは離れた状態であって欲しいと思うのです。お恥ずかしながら、私は閉所恐怖症という欠点もありますが、この狭っ苦しい棺桶の中に居て、なお且つ火葬炉の中に閉じ込められて、しかも業火で焼かれるシーンを、リアルな自分目線では絶対に経験したくないのです。この気持ちは読者の皆さんにも、幾分かはご理解の頂ける方がおられると信じるとします。
こんな時です。何故かは分かりませんが、丸々と肥えた住職の読経が、炉前室内に高らかに響き渡って、それが妙に有難く、身にしみてくるのでした。
こう思っていた私の斜め前で、「もう気が狂いそう」と言葉を漏らしたのは、昨晩、通夜の途中で、心労で倒れてしまった祖母の次女の友美で、その隣に居た旦那さんの哲郎さん(この六年後に急逝、享年六十)は「大丈夫?」と優しく妻の友美(哲郎急逝の半年後に死去、享年六十七)を支えていたのを、今となっては、より切ない記憶として私に上乗せされております。
数十分なのか、一時間以上だったのか、祖母の遺体の火葬時間はどのくらいだったのか、もう思い出しようもありませんが、これも別室にて、非日常的な待ち時間を味わってから、再び一族は炉前室に大移動するのでした。
祖母景子は、死去する数年前に大腿骨を骨折し、その時の手術で固定したボルトが、火葬後の乳白色の骨の山の合間から、骨埃をかぶって粉っぽくなってはいたが、深紫色に焼けて、こっそり見えていました。
人間は火葬されると、当然のように骨カスになります。生きていた痕跡が、もうたったこれっぽちになってしまい、今後、世界中のどこを探しても、もう亡くなってしまった人には、永遠に会えず、話す事も、全く触れる事も出来なくなるのです。
永遠に?
さてここで、前にありましたが、人間は死んでしまった後どうなるのだろうか。
祖父福助が亡くなった時に、私は少しだけ不思議な夢を見ております。
鈴の音が聞こえています。中国の水墨画のような、白黒のみの風景なのですが、黄山みたいな尖った山々が、大小何本も高々とつっ立っていて、所々は霞がかって遠くまでは見えずにいましたが、一本の砂利道が、遠く遠く奥の方まで続いています。
その道を歩く人物が居ます。後ろ姿でしたが、直ぐに祖父だと分かりました。
白装束を着た祖父は、右手には身の丈ほどの細長い杖を持って、左手には黄金色(思えば鈴だけは色が付いていました)の、小さい鈴が何個か束になっていて、間の置いたテンポで、それをシャリンシャリンと鳴らしながら、祖父は私に背を向けたまま、静かに歩いて行きました。
目を覚ました私は、祖父はあの後、無事に目的地(天国?極楽?)に辿り着けたのだろうかと思いましたが、いかんせん夢でしたし、私も当時は二十歳とまだ若かったので、ただの印象の強い夢としか心に残りませんでしたが、それから二十年以上も経つのに、未だにハッキリとその夢を憶えているところをみると、自分の中で、何か大きな意味を持った夢だったのかも知れないと、思わざるを得ません。
死後の世界が有る無し関係無くして、生まれ変わりという現象があったとしたら、どうして私には前世の記憶が残っていないのでしょうか。
たまに前世の記憶が残っていると言う人が居ますが、それを証明させて、万人を納得させる証拠を示すのは難儀な事です。が、私は「これは前世の記憶の痕跡か?」と思う時があります。
先にも出ましたが、私は閉所恐怖症であり、加えて高所恐怖症であるという事です。
あくまで想像の範疇ではありますが、例えば前前世では落盤事故とか、事件とかで生き埋めにされて死んだと仮定しましょう。次の前世では、高い崖から誤って転落死したとか、人から突き落とされたと仮定しましょう。そんな前世の一件が、現世では恐怖症となって残っているからではなかろうかと。
生き埋めになった息苦しさや恐怖とか、必死にもがいても叶わず、高い所から落下してしまった時の感覚などを、現世で容易に想像できてしまうからではなかろうかと思うのです。要は狭い所だったり、高い所では気を付けろと魂が注意をかけてくれているという解釈です。
本当に、果たしてそれらは、前世からの記憶の痕跡なのだろうか。
しかしこれは、想像の範疇から出る事はありません。
私は多少は大丈夫ですが、ゴキブリが苦手な方は本当に大勢いらっしゃいますね。
私からすると、こんなちっぽけな虫を皆は気持ち悪がって、何で見るのも触るのも嫌がるのだろうかと不思議に思う事もありますが、あのビジュアルは確かに不気味な存在ではあります。
まさかであり、あくまでこれも仮説でありますが、過去にゴキブリに相当な悪さをされた「超前世の記憶の痕跡」が、皆さんには残っているからなのではなかろうかと。
大昔、ゴキブリは体長が一メートルあり、時速六十キロで走ったとか。雑食なのと、激烈な繁殖力・・・。あんなのがデカくて、ウジャウジャ居たらどうだったのでしょうか。少し気持ち悪くなってきたのと、話の道筋から脱線したので、ゴキブリの話題はこの辺でやめておきましょうか。
前世の記憶が丸々残っていたとしたら、現世と記憶が混同して脳がパンクしてしまったり、幼い時点での人格形成(生まれた時点で前世の記憶を全て持っているとすると、かなり色々な弊害が出る可能性があると思います)に問題が出てしまったり、下手をしたら歴史にも影響を及ぼしてしまうような、歴史的事実と、人類の記憶の錯誤が発生してしまったりするでしょう。
しかし、前世の時代の情報が残っていたら、案外楽しい事もあるのかも。
今と全く違った時代形態や生活様式、その言語だったりの経験がそのまま記憶されていると、もしかしたら現世に活かされて、より充実した今生を送れるのではなかろうか。
ただし、現世で生きているのが辛いから、テレビゲームのリセットボタンを押すように、簡単に自死を選択してしまいがちになるかも知れない。となると、生命体としては、肉体的に記憶を持たない方が正解なのかも知れません。
肉体的な記憶媒体は脳(ソフトウェア)であって、潜在的な記憶は魂(ハードウェア)にある。
なので前世の記憶は、今世の肉体には無いのだけれど、魂にある記憶の痕跡が、稀にアップ(トラウマ)されているのでは、とも考えられますが、これもあくまで空想の域を出ません。
ここまで書いていて思い返したのが、やはり死後に関しては、自分の希望というか、楽観的な要望を想像してしまいがちになるという事です。
強い風が窓ガラスを揺らしています。
外を見ると、月明かりの届いていない黒い木枝が、枯れ葉を数枚だけ残して、右に左にと小刻みに暴れています。
しかし、奥に見えている星空には、黄やら白やら橙色の瞬きが沢山あって、思わず窓ガラスを開いて、月を探しに夜空を見まわしたくなりましたが、あいにく私の身体には管が何本も刺さっていて、それは容易ではできないのです。
読者の皆さんがこの手記をご覧になっている今時分には、恐らく私はもうこの世には存在して居ないでしょう。
私は半年前に、進行性の胃ガンで末期症状と診断されました。
よって現在は病室にて、この手記をパソコンに残しています。
もはや骨と皮だけの身体になってしまった私には、これほどまでに人の死というものを真剣に考えるタイミングは他には無いでしょう。
私は近しい人の死から、何を汲み取ってきたのでしょうか。
友人どころか、恋人も居ない。病気を機に仕事も辞めた私ではありますが、やはり両親よりも先にこの世を去る事に、多少の心の痛みがある事に、嘘はありません。
私が他界した時、私の両親は、どんな思いで炉前室に居るのでしょうか。
火葬炉の中に入って行く私の棺を、どのような気持ちで見送るのでしょうか。親不孝者だと、棺を覗き込まれながら、親戚たちには思われてしまうのでしょうか。
こうなると、死ぬ時の恐怖や不安よりも、死んだ後のこの世の不安の方が増幅しているという、滑稽な心理状態な私ではありますが、実は私には、それを大きく励まして下さる方たちが大勢いるのです。
それは祖父母をはじめとする、先に亡くなった全ての先輩たちに他なりません。
特別に私を励ましてくれているのは、私が好きだったアーティストの方です。
その方は若くして亡くなっております。私の青春を捧げたあのアーティストの方でさえ、私よりも先に黄泉へ旅立っているのです。
人類の歴史が始まって以降と見積もっても、一千億人いるのか分かりませんが、先人の方たちは、皆さん平等に死を迎えています。
当然、歴史上の人物も、そうでない方たちも。
今、この手記をご覧になっている読者の皆さんも、後々同様に死を迎えるのです。
なので私は怖がらず、どんとした気持ち(痩せ我慢ではありますが)で「その時」を迎えよう思います。
さて、自分が瞑目する時に見える最期の景色とは、いったいどんなものなのでしょうか。
このままでは、この病室の天井という味気ないものになってしまうのでしょうが、出来れば自分の愛する人だったり、自分を愛してくれる人の顔を見て、ちゃんとしたお別れができたらどんなに幸せだろうか。
そんな虚しい空想が、止めどありません。
夜回りの看護師さんに「身体に障りますよ」と言われました。
間近に一人でも温かい言葉をかけてくれる人がいるだけで、どんなに安らかな気持ちになる事でしょう。
ですので、今日の作業はもうこの辺にして、ゆっくりと眠ろうかと思います。
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