焦爛の芍薬 第3話 ~祖父の日記~

焦爛の芍薬 第3話 ~祖父の日記~

 ~~ 初恵の登場 ~~

 一九XX年五月二十五日
『宗佑さん一家が我が家にやってきた。会うのは何年ぶりであったろうか。宗祐さんは老けたが元気そのものだった。小さかった初恵ちゃんはもう十六才になっていた。初恵ちゃんは俺と同じ五月二十日生まれで、俺が二十才の時に誕生した娘だった。この夏、横須賀から我が家の隣に越して来るらしい。妻は何やら複雑そうな表情だったが、俺は生活が賑やかになる分は歓迎だった』

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 祖父誠司の日記に「初恵」という言葉が出てきたのはこの日が初めてだった。
 「宗佑」とは「初恵の祖父」のことである。この人物もかなりの財力を持つ実業家だった。
 真希の祖父はこの頃から北鎌倉に住んでいたが、今の屋敷がある場所ではなく、当時の住所はもう少し鎌倉寄りの、亀ヶ谷の切り通しの入り口付近にあったらしい。

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 一九XX年七月十五日
『宗佑さん一家が越してきた。これで俺の仕事も拍車が掛かるであろう。宗佑さんは忙しかったのだろうか。桐絵さんと初恵ちゃんの二人だけが夕方に挨拶に来た』

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「桐絵」とは宗佑の娘で「初恵の母親」のことである。

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 一九XX年七月二十日
『初恵ちゃんがビスケットというお菓子を持って来た。私が焼きましたので宜しければお食べになって下さい、との事であるが、食べてみると御当地銘菓のサブレーの様な、とても香ばしくて美味いお菓子であった。あの小さかった子がお菓子を作れる年齢になったのかと、懐かしくもあり感慨深い気分になった』

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 真希の推測だが、恐らく宗佑と誠司は同業の不動産業で提携し、事業を拡大していったようであった。
 宗佑が越してきたことで、誠司の事業にも更に勢いが付いてきていると読み取れる文面が多々見受けられたからだ。

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 一九XX年八月十日
『今日は仕事が早く片付いた。もう少しで自宅という時に激しい夕立ちが。駅付近の小店の軒先で初恵ちゃんが雨宿りして居たので車に乗せて送ってあげた。しきりにお礼を言って来たのだが、お隣さん同士だ。にしても本当に礼儀正しい娘になったものだ』

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 この当時から車に乗っていたとは!と感心している場合ではなかったが、誠司と初恵の距離がこれから近くなってくるのだろうことは確かだと真希は感じた。

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 一九XX年八月十一日
『初恵ちゃんが昨日のお礼にと、またビスケットを焼いてくれた様だ。俺が留守の時に妻が受け取ったらしい。妻は無愛想であったに違いない。初恵ちゃんが嫌な気持ちになってはいないか心配になったが、やはりビスケットは香ばしく美味かった』

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 一九XX年八月二十二日
『今日は朝からやけに蝉がやかましい。宗佑さんの家で仕事の打ち合わせであったが、お隣へ行くのも勇気が要るような、そんな炎天下であった。打ち合わせの途中わざわざ初恵ちゃんが冷やしカフエを出してくれた。俺は自分が使っていた団扇で、悪戯っぽく彼女をあおりながら茶化した後、この間のビスケットの礼を言った。初恵ちゃんは頭のてっぺんから結いこぼれた数本の長い髪を揺らせながら、とても照れくさそうに目を細めて笑った。真珠色をしていて右側だけがやけに目立っている糸切り歯を俺に覘かせていた。額は少し汗ばんでいた。暑さとはまた別に丸い頬を桃色に染めている様だった。彼女はとても可憐な娘になっていた』

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 真希はここまで読み、誠司と初恵の間に、何やら特別な感情が湧き起こっていると察しがついた。
 しかし、この二人は遠いながらも血縁関係にあるのだ。
 誠司の祖母と、初恵の祖父の宗佑は姉弟である。
「まさか・・・まさかだよね」
 真希は日記帳を読み込んでいく度に、ドクンドクンと心臓がおかしな動悸を弾き出していることに気付いた。

 ~~ 揺れ動く想い ~~

 一九XX年九月二日
『朝、起きて外の景色を眺めていた。初恵ちゃんが学校へ向かう所だった。侍女と二人で俺の家の前を横切っていた。彼女は二階の窓辺に居る俺に気が付いた様だった。ニコリと斜めに会釈をしてくれた。俺がどんな面をして手を挙げて応じていたのだろうかは知らない。しかし俺は今日一日をあの笑顔で乗り越える事が出来たと今思った』

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 一九XX年九月五日
『外側に切れ上がった幼猫の様な大きな瞳。絹の様に艶やかで純白な肌。潤いに満ち満ちしている玉結いの青黒い髪。今にも折れそうな枯れ木の様な痩躯。俺は彼女の事が頭から離れなくなっている。日頃の仕事を漫然と処理してしまうのだ。何故、自分の家族よりも彼女の事を思ってしまうのだろうか』

 一九XX年九月六日
『もはや病なのだろうか。いいや俺は大人である。そんな幼稚でもあるまいし、今さらこの様な恋心など生まれるはずも無い。落ち着け、落ち着くのだ。毎日毎日俺は自分にこう言い聞かせ続けている』

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 一九XX年九月十日
『朝、普段の時間に目が覚めたが、何かを感じて直ぐにカーテンを開けた。外に初恵ちゃんが立って居た。明らかに俺と目が合っていた。まるで一晩中泣き明かしたかの様に、その大きな瞳は真っ赤に腫れていた。彼女は明らかに俺に何かを訴えようとした様だ。慌てた侍女が彼女を連れ戻しに来た。あれは一体何だったのだろうか。そしてこの動悸は、俺の動悸は何を意味しているのだろうか。今日は一日中仕事が手に付かなかった』

 一九XX年九月十一日
『彼女は昨日、何故あんな目をしていたのか。思い起こせば、宗佑さん宅に住み込みで居る年頃の奉公人、姓は確か森下といったか。俺は突然、その男に初恵ちゃんの純朴を汚されたのではと憤った。この筆を持つ俺の手が震えている。例えようのない脅迫と不安を感じていた。これはただの俺の妄想に過ぎないのに。今日はウヰスキーでも飲んで早く眠る事にする』

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 この連日の文面から、誠司の初恵に対しての感情が恋愛に到達していたことに真希は何の疑いもなくなっていた。
 それにしても、初恵の感情が今ひとつ理解できないことに真希は少々苛立ちを覚えていた。
 初恵の心が誠司に惹き込まれてしまうような、彼との接点はそこまで多くはなかったはず。
 なのにどうして初恵が誠司に惹かれていったのか、真希は甚だ納得ができていなかった。

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 一九XX年九月十三日
『野良犬が死んでいた。朝の散歩中、屋敷裏の林道での出来事だ。だが野良犬の死骸など俺にはどうでも良かった。何故ならその野良犬の傍らに初恵が座り込んで居たからだ。羽織から伸びる彼女の襟首は、簡単に折れてしまいそうな程にか細く、俺に強い悲壮感を感じさせた。はっと振り返った初恵は立ち上がって、薄く笑って「おはようございます」と小声で言った。羽毛の様な睫を伏せ、前の様に片側に軽く首を傾げる会釈をしてその場から小走りで去って行った。どうして彼女が野良犬の死体を眺めていたのか、俺は最後まで解らなかった』

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 一九XX年九月十五日
『出張で静岡に来た。旅館の風呂も料理も良い。女将に酒を追加させたのは良いが、既に俺は酔っている。先程、ロビイで初恵に似た仲居を見た。勿論、初恵がこんな場所に居る筈も無い。現に似ても似つかぬ女だった。そうだ、土産に安倍川餅でも買って帰ろう。早く初恵に逢いたいものだ』

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「初恵ちゃん」から「初恵」へ呼称が変わった。
 そこから誠司の感情の変化も読み取れた。
 日記からは、もう妻や子供といった家族への言葉が消えていた。
 真希は、誠司の妻である祖母の美由紀、そして誠司の子であって真希の父親のことを全く意識しなくなった誠司のことが、無性に憎たらしくなってきた。
 真希はそれと同時に、祖父がここまでも惹き付けられてしまった初恵という少女が、一体どんな人間なのかをどうしても知りたいという非常な興味が湧いてきた。
 初恵は写真も残っていない、目にも見えない存在なのだが、真希も初恵に対して言いようのない関心を抱いてしまったのだった。

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 一九XX年九月十九日
『今朝ラヂオで臨時ニユースが流れた。関東軍が中国の満州で軍事行動を発したらしい。これから日本は戦争に入るのだろうか。俺の事業は軌道に乗り始めている。鬼が出るか蛇が出るか。そんな話を持ち込んで宗佑さん宅へ出向いた。さりげなく初恵に静岡の土産を渡した。大層喜んでくれたのが何よりだったが、帰り際に玄関にて、そっと手紙を渡された。手紙を渡した時の初恵の表情は、まるで桃色の芍薬の花の様だった。俺はまだ、その手紙を開封していない』

 ~~ 時の欠落 ~~

 日記をめくる真希の手にずっと前から違和感があったが、その違和感の正解がようやく解った。
 九月十九日以降のページがごっそりと切り取られていたのだ。
 その先のページが全て無くなっていた。
 つまり一九XX年の日記は九月十九日を最後に終わっていた。
 異様な感覚に襲われた彼女は、すぐさま翌年の一九XX年の日記を手に開いたが、見返しをめくった時点で同じ違和感を感じ、ことを予見することができた。

 そう、その年の日記の一月十五日までが切り取られていたのである。
 前と同様にナイフかハサミのような鋭利な物で綺麗に切り取られていた。
 どうして切り取られているのか?
 誰が切り取ってしまったのか?
 切り取られたページはどこへ行ってしまったのだろうか。
 初恵の手紙の内容とは一体何だったのだろうか。

 真希は仕方なく、一九XX年一月十六日からの日記を読み進めてみた。
 が、それ以降は初恵の名どころか、宗佑の名前すら登場すること無く、その年の日記は終わっていたのである。

 真希の顔には無情にも、古びた日記帳のカビた匂いだけが無駄に押し寄せていた。
 ただひとつ言えたのが、一月十六日以降の日記の内容は、戦争のこと、事業のこと、それ以外の事柄は一切書かれておらず、家庭のこと、趣味のことなど、プライベートな内容は皆無であり、無機質に感じるほど淡泊な内容になっていた。
 同様に、祖父の筆跡は以前よりも明らかに弱々しいものになっていたのである。

 謎は深まるばかりなのに、完全に頓挫してしまった。
 彼女は、もうこれ以上の追跡は不可能なのかな、と声にもなっていない空気を吐いた。
 その刹那だった。

「真希ちゃん、そこで何をしているの?」

 真希の全身の毛穴が一気に開き、一瞬呼吸が止まった。
 真希は自分が祖父の書斎にいることをすっかり忘れて日記を読みふけってしまっていたのである。

「わ!おばあちゃん、帰っていたの?」
「ええ・・・それを読んでいたのね、よく分ったわね、そこにあったの」

 鼈甲の眼鏡の後ろにある祖母の冷め切った軽蔑の眼差しは、明らかに真希に向けられていた。
 彼女が今まで味わったことのない、感じたことのない、不気味なまでに獣がかっていた祖母の眼光はかなり厳しいものだった。

 ~~ 交錯 ~~

 が、しかし、祖母の憤る感情と同等に、真希の心にもそれはあったのだ。
 それもそうだろう。
 真希当人からしたら、処分したと聞いた祖父の日記の山が土蔵から発見されるし、抜けた日記帳はいつも祖母が座っていた安楽椅子に隠されていた。
 極めつけは日記の内容である。
 祖父の誠司が、こともあろうに親戚の少女に恋心を抱いてしまうという文面は、真希をいらだたせるには充分な内容だった。

「おばあちゃん、どうしてこの日記をこんな場所に隠していたの?それに、おじいちゃんのこの日記の内容って・・・」

 祖母の美由紀は、さっきまでの敵意剝き出しと違って、急に我に帰ったように落ち着きを取り戻し、ぽつりと言った。

「仕方がないのよ。好きになってしまったものは、もう誰も止められないものなのよ」

 真希は胸がギクッとした。
 美由紀は、真希が日記を読んで内容をどう解釈しているのか悟っていた。
 さっきは真希が封印したが、真希に初恵という存在を知られてしまったことも認識した。
 それを踏まえ、続けて祖母はこう言った。

「おじいちゃんとあの娘は、どうもしようがなかった・・・今となってはそれだけのことよ」
「え、やっぱりそうだったの?おばあちゃん、初恵と、いや・・・初恵さんとおじいちゃんってその・・・」
 真希は、これまで生きてきた二十五年間に抱いた、祖父誠司のイメージをバラバラにする過程にいた。完成されていたジグソーパズルを爪を立てて搔きむしるように。
 そしてそこから先は、言葉が出てこなかった。

「もう全部読んじゃったの?」と美由紀。
「うん、あらかた」
「そ」
「あの・・・初恵さんって、今もまだ生きているの?」
 真希の興味は誠司と初恵の関係性と、どうしてこの日記だけを安楽椅子に隠したことかにあったが、初恵の名を封印したさっきと同じように、これも祖母にとってはジョーカー的のような存在だと危惧したため、初恵の存命確認だけに転換した。

「とおっくに死んだわよ。自宅で火事が起こってね、巻き込まれて死んだの・・・そう、一九XX年にね」
「えっ?一九XX年に火事で?・・・そ、そうだったんだ」
 その年は、真希がいま手に持っている途中まで切り取られた日記帳の年代だった。
 真希は一瞬、足がすくんだ感覚を覚えた。
「おじいちゃんのことはね、ほんの一時の出来事だったと、私はそう納得したの。だって会社を、この西条家をここまで大きくして下さったのは、おじいちゃんですからね。そのくらいのこと私が目をつぶらないと罰が当たっちゃうでしょ」
 その言葉が本気ではないことくらい、真希には容易に想像ができていた。

「ところでさ、この日記の切り取られた部分ってどこへ行ってしまったの?」
 真希は手元の日記帳の切り取られた部分をパカパカして美由紀に見せた。
「え?切り取られてたの?・・・さぁ、それは知らなかったわ」
「え、じゃあ誰が・・・おじいちゃんが自分で切り取ったのかな」
 真希は日記帳の表紙をさすっていた。
 祖母の美由紀は中庭の方を眺めながら、ため息混じりにこう言った。
「やっぱり本当に全て捨てておけば良かったわね。孫にこんな恥ずかしいことを晒すことになってしまって、おじいちゃんに怒られちゃうわね」

 美由紀は真希の手から日記帳をそっと取り上げた。そしてその二冊の日記を祖父の机の引き出しの奥の方にしまった。それから床に転がった安楽椅子のクッションを元に戻して、お茶を入れるからおいで、と真希の肩にそっと優しく手を置き、先に書斎から出ていった。

 書斎に残された真希は、コソコソと土蔵や書斎にあった日記帳を読みあさっていたことに強い罪悪感を感じていたが、美由紀が優しく手を添えてくれたことで、少し安心したのが正直な心持ちだった。

 初恵が誠司に手渡した手紙。
 切り取られてしまった祖父の日記の一部。
 これらの内容は、永遠に私は知ることができないのか、とそう落胆していた真希であったが、それは意外にも簡単な場所に隠されていたのであった。