焦爛の芍薬 第4話 ~初恵の手紙~
- 2025.01.14
- 小説

~~ 黄昏と巻き鍵 ~~
真希は二階の自室から、夕暮れ時の庭をボンヤリと眺めていた。
今にも庭木の隙間から初恵がひょっこりと現れるのではないかなどと、幻覚めいた感傷に浸っていた。
気が付けば、すっかりと辺りは薄暗くなっている。
身体が少し冷えを感じて口が渇いてきた真希は、なにか温かい物でも飲もうと食堂へ向かう階段を降りていた。
途中、懐かしく彼女の鼓膜を震わせていたのは、またしても撥条仕掛けの柱時計の鐘であった。
真希は幼いころ撥条時計のネジを巻くことに憧れを感じていた。
子供だった彼女には一切触れさせてもらえなかったが、屋敷の使用人の老人が踏み台に乗ってギーコギーコと、何とも心地良い音を立ててネジを巻いていたのである。
真希が特に興味深かったのは、ネジ巻きに使う巻き鍵そのものにあった。
指を入れる部分のカギ羽根には蔦の細工が施されており、十センチほどのカギ軸がトンボの胴のように伸びていた。
ある日また使用人がネジ巻きをする様子を食い入るように見ていた彼女に、祖父の誠司が一つの小箱を差し出した。
彼女はその箱を開けてみると、中に巻き鍵が入っていた。
そう、誠司は鍵付きの小箱を真希にプレゼントしてくれたのである。
「あっ!」
真希はその箱に祖父からの手紙を大切に保管していたのだが、この屋敷を出て行くときの祖父との会話と、その小箱を置いて出たのを思い出した。
「真希、これからきみも独り立ちして立派な大人になるんだな。たまには手紙でも書いて送るよ」
「ありがとう。あ、そうだ。あの箱をいつもの場所に置いていくから、その中に入れておいてくれない?帰った時に読むことを楽しみにしておきたいからさ」
「あぁ、分かった、入れておくよ」
一年後に誠司が亡くなったとき、真希はその箱に鍵をかけて、それ以来開いていない。
その箱は彼女にとってとても大切な祖父との思い出の品であるが、箱の巻き鍵は革製のキーケースに入れて自分の家の鍵と共に常に持ち歩いている。
そして、あの小箱の在処は祖母の美由紀でも知らない場所に置いてある。
祖父と真希しか分からない特別な場所に隠してあるのだ。
このことは本当に彼女と祖父の二人だけの秘密であるゆえ、ここに記すことはできないことを予めご了承していただきたい。
~~ 発見 ~~
真希は秘密の場所から小箱を持ち出し、再び自室へ戻った。
祖父からもらったままの変わらない小箱が真希の目の前にある。
久しぶりに巻き鍵を鍵穴に差し込んで、ガチャリと金属的な気持ちの良い感触が手に伝わってきた。
真希が帰省の度に読んでいた懐かしい誠司からの手紙がたくさん入っていた。
一、二通久しぶりに読み返してみたが、手紙には祖父の活字がまだそこに生きていた。
真希は少しだけ涙が出た。
「あれ?」
重なっている手紙の奥の方に、とても古びている封筒が角だけを見せていた。
真希は不思議に思って引き出してみると、時を経てだいぶ黄ばんではいるが、何とも可愛らしい動物の紙細工が付いた封筒があった。
真希は一瞬で、これは初恵からの手紙だと直感した。
(なぜこんな所に、どうして祖父は初恵の手紙を私の箱にかくまったのだろう)
まず心の中心にはそんな疑問もあったが、真希は手紙の内容の方が気になって封筒の中から逸る気持ちで折り込まれていた数枚の便箋を引き抜いた。
その便箋には、とっても小さな文字が丁寧に書き連ねてあった。
便箋は少々の傷みはあったものの、読むのには大丈夫そうであったが、何せ祖父の日記と同様に昔の人の書いた字は解読が難しい。
しかしそんなことよりも、真希は初恵の肉筆に出会えたことに心が激しく躍っていたのであった。
~~ 初恵の手紙 ~~
謹啓
白露の候。
暑さも和らぎ過ごし易くなって参りました。
貴方様は憶えておられないと思いますが、あれは私が四歳の頃であったと思われます。
貴方様は私の家に遊びに参られました。
私がひとり、お庭で遊んでいた時に、一本の大蛇が姿を見せたのです。
大声で驚いている私に、貴方様が一目散に飛んでやって参り、私を抱き上げて大蛇を追い払って下さったのです。
幼き頃に父を亡くしている私にとって、貴方様に父親の逞しさの残像を感じ得ていた、そんな気が致します。
貴方様は憶えておられないと思いますが、あれは私が六歳の頃であったと思われます。
貴方様が大変お美しい許嫁を私の家へお連れになられた時、私は格別に胸痛が酷くなったのを記憶してございます。
その日の事でございました。
貴方様は屋敷の裏庭で死んでいた一匹の老猫の遺骸の前で、立ち尽くしてございました。
私が、悲しいのですか、と尋ねますと、貴方様は、いいやコイツは天寿を全う出来たのだから幸せであったろう、さあ行こう、と言ってから私を抱き上げて下さいました。
私は訳も解らず貴方様の首根っこへ夢中になってしがみついた記憶がございます。
何とも形容しがたい頼もしい香りが、未だに私の額あたりに残っております。
その後の人生、街で見かけた野垂れ死にの犬猫の遺骸ですら、私にとって大切な思い出の欠片と変わっていったのです。
毎年元旦に来る年賀状を、郵便配達員から受け取るのが私の務めでございます。
貴方様の直筆を、毎年毎年どれだけ心待ちにしていた事でしょう。
御多忙中でも貴方様は毎年、御自身でお書きになられてましたね。
御爺様の名前、私の母の名前、そうして私の名前。
貴方様が書いた私の名前の筆跡を、私は指でなぞり、貴方様との一体を感じるのです。
私の事を、貴方様がお忘れになっていない事が確認出来る。
これは非常に喜ばしい機会ではございましたが、それと同時に、貴方様の御家族の銘々を拝見する度、申し様の無い程の胸痛にも苦しめられる時間でもございました。
運命の悪戯とは残酷なものでございます。
まさか、貴方様の御屋敷の隣に住まう事になろうとは、思ってもみませんでした。
貴方様の傍に寄れる歓喜と、貴方様の御家族との生活を羨まなければならない絶望。
貴方様に愛されてございます奥様と、その愛の結晶である御子息は、そこらの野垂れ死にの犬猫の遺骸と同様、私に鬱を予感させ、愛情を渇望させるのでした。
よく解ってございます。貴方様には奥様と御家族、それに地位もございます。
何と申しても私と貴方様には血の繋がりもある間柄にもございます故、これが叶う事の無い非常で有る事も、ようく解ってございます。
ですが如何でしょう。
此処に来てからと申すもの、その非常が、抑えきれない激情に姿を変え、私めを飲み込み尽くす事が多くなって参りました。
何故これ程まで苦しまなければならないのでしょうか。
私にとり、掛け布団は貴方様の様でございます。
夜な夜な私は貴方様に暖かく包まれている事を空想させ、容赦ない激情が、掛け布団の中の私を窒息させる程、気を狂わせるのでございます。
大きな掛け布団に、私は幾度も抱かれておりました。
失敬。この手紙でお伝えする事は本来これではございませんでした。
御爺様より、或る方との縁談話が持ち上がりました。
私より十ばかり年が上の大阪の豪商の御子息で、その方は地位もある立派な方と聞いてございます。
私は泣きに大泣きをして、御爺様に無礼も承知に反抗致しました。
ですが、私が想いを寄せる貴方様の事を口に出せる筈もございません。
私は、来春にも大阪へ発つ事になりました。
私はどんな形であっても、貴方様の傍を離れたくはございません。
例え毎晩、掛け布団との激情に苦しんでいても、貴方様のお傍を離れるよりは増しでございましょう。
何故、私はもう少し早くに生まれて来られなかったのでしょうか。
大袈裟に言ってしまえば、死んでしまった方が楽でございましょうが、生憎私にはその様な勇気も無く、ただ川を流れる落ち葉の様に、時の最果てへ流々と運ばれる迄でございます。
我が儘でございましょうが、どうかお笑いにならないで下さい。
ほんの小娘の初恋話でございますから。
謹白
~~ 牛鍋 ~~
まるで真希は、自身が初恵から受け取った手紙を読んでいるかのように、自分に向けられている愛情だと思い違いをしてしまうほど動揺し、ドキドキと動く心臓の鼓動が鼓膜に響き渡って、パンパンになった後頭部の血管が脳みそを締め付けて頭痛を生みだしていた。
この手紙の内容から察するとすると、つまり初恵は幼少期から祖父のことを想っていた訳で、いわば彼女も誠司への禁断の愛に苦しんでいたとみれる。
しかし、初恵は祖父の誠司にこの手紙を手渡したあと、火事で亡くなってしまった。
「?」
初恵の便箋が入っていた封筒の中に、明らかに真新しい紙切れが入っている。
真希はその紙切れを、人差し指と中指をピンセットのようにしてつまみ出した。
「真希、土蔵の古箪笥の床板を剥がせ」
その字は紛れもなく、真希が読み慣れていた誠司の文字であった。
ゾッとした寒気が彼女の背中を伝った。
祖父は死する前に、真希が初恵の存在を知り、彼女がこの小箱まで辿り着くことを予見していたのだろうかと動揺した。
誠司は自身の死を意識したのち、真希に内緒で初恵の手紙とこのメモ書きを小箱に入れたに違いない。まるで祖父に導かれているようだと、真希はこの時そう思うしかなかった。
真希が残している謎は、一九XX年の九月十九日から一九XX年の一月十五日までの切り取られた祖父の日記のありか、それとそこに書かれているであろう出来事だった。
祖母の美由紀は知らないと言ってはいたが、真希はその言葉をまるで信じられなかった。
あの日記を切り取ったのは、祖父本人であると仮説を立てると答えは簡単だっただからだ。
初恵と誠司との間柄を疎んでいた美由紀がもし切り取って処分するのであったならば、祖父の日記帳に初恵のことが書かれている部分の、その全てを切り取るはずだからだ。
それにわざわざ一部の日記帳を安楽椅子に隠したりせず、それこそ祖母が言っていたように全てを焼き捨てていたはずだと、真希はずっと考えていたからである。
誠司も美由紀もあえて日記帳を全部残しているのには、それなりの理由があったはずだ。
それをなぜ真希に知らせたがっているのか、そこはいくら考えても謎だった。
真希は、もう外は暗くなっていたが、土蔵に向かうために玄関へ降りた。
「あら真希ちゃん!ちょうど呼びに行くところだったのよ、夕ご飯の支度ができましたよ」
「あれ、多江さんいつの間に戻っていたんですか?あ、ちょうど私も食堂に行こうと思っていたところだったの」
またしても多江と玄関でバッタリと会ってしまった真希だったが、ひとまず怪しまれるのも不本意なので、軽くごまかして素直に食堂へ向かうふりをした。
先ほどの祖父の書斎での出来事もあって、祖母と顔を会わせるのには気まずい感じであった真希だが、この屋敷にいる以上は決して避けては通れない道であるからして、グッと唾を飲み込んだ。
真希が見る限り、明らかに祖母はいささか気落ちしているようではあったが、そんな時はやはり多江の存在は大きく、三人での食卓は特別落ち込んだものにならずに済んだ。
今晩は多江の大好物であるすき焼きで、昨晩と同様に三人共々お酒がすすんだのだが、真希は祖父が残したメモ書きに書かれていたことが気になって頭から離れずにいた。
その影響なのか、この日はなかなか酔うことはできなかった。
気が付けば夜十時の鐘を、遠くの撥条時計が普段通りに鳴らしていた。
「あら、もうこんな時間。お姉さん、お先にお風呂にしてくださいな」
「そうね、でも今晩は少し飲み過ぎたかしら。もう少し休んでから入るから、多江ちゃんお先にどう?」
姉がこう返すと妹は「私は鍋やらの片付けをしてからにしますから、そうよ、真希ちゃんが先に済ませちゃってくれない?」
結局、真希が先に風呂に入る流れとなってしまったが、彼女としてはむしろこの方が都合が良かった。
さっさと風呂を済ませた真希は、先ほど風呂に入った祖母の美由紀、食堂で片付けをしている多江に怪しまれることなく、こっそりと土蔵に向かえたのだった。
~~ 三たび土蔵へ ~~
真っ暗闇の中に重々しくたたずむ土蔵の前まで行った真希は、昨晩には感じ得なかった少し不気味な雰囲気を拭えなかった。
酔い方が昨晩よりも浅かったのもあると思うが、何やら、ことの真相に近づいている緊張感が彼女にそう思わせていたのか。昨晩のような、酔った勢い的な開き直った感じは少しもなかった。
気が付けば真希は、土蔵の中の祖父が示した古箪笥の前に居たが、真希の背丈の半分程度の高さのこの古箪笥を眼前に、何となく昔からここにこの古箪笥が有ったことを記憶していた。
古箪笥の中身は空っぽなのだろう、彼女ひとりで動かすには造作なかった。
祖父のメモには「古箪笥の床板を剥がせ」と書いてあったが、それも簡単なことだった。
土蔵の床は、縦一メートル、横二十センチほどのケヤキ材が敷き詰められている作りであるため、そう難しいことはなかったのである。
よほど古くから置いてあったからか、古箪笥があった場所だけが若々しいケヤキの無垢が顔をのぞかせていた。
案の定であった。
床板をめくり上げると、そこには大きめな茶封筒があった。
その中には、切り取られた祖父の日記が白い和紙に包まれた状態で眠っていたのである。
一体これには何が記されているのか。
祖父は何を真希に伝えようとしているのか。
真希は懐中電灯を古箪笥の上に置き、その灯りを頼りに、切り取られた誠司の日記の切れ端が入っているであろう、白い和紙の包みを開いた。
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