焦爛の芍薬 第5話 ~聖夜の過ち~

焦爛の芍薬 第5話 ~聖夜の過ち~

~~ 切り取られていた祖父の日記 ~~

 一九XX年九月二十日
『初恵からの手紙は未だに開封はしていない。これからの日本の先行きに、世間でも専ら戦争の話題で持ちきりなのもあるが、俺に開封させる勇気がないからだ。しかし、そんな戦争の話よりも、初恵の手紙の内容が気になって仕方がなくなっている俺も居る。やはり、今日も仕事が手に付かない』

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 一九XX年十月十五日
『毎日の仕事が烈火の如く忙しい。気が付けば初恵の手紙を開封せずにひと月も経とうとしている。初恵も最近は姿を見せていない。だが隣の様子を見るからに、元気にやっている事は想像出来た』

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 一九XX年十月十七日
『俺の心の中から初恵の事を遠のかせる程、毎日の日々は忙しかった。それは俺にとって背徳感を和らげてくれた。つまり多忙が特効薬となって感情を中和させてくれていた訳だ』

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 当時の誠司の日記からは、仕事の忙しさと殺気立つ戦争の動乱の風に、初恵に対しての情愛が霞み始めていたことが読み取れた。
 しかし初恵からの手紙を既に読んでいる真希にとって、初恵の誠司に対する感情は、当時の誠司とは逆に狂気をはらんでいることから、のちに控えている初恵の死の不気味さが、より一層彼女の双肩に重くのしかかり気持ちを暗くするのだった。

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 一九XX年十月二十日
『久しぶりに初恵を見た。昼に一旦、北鎌倉に戻った時だった。以前、車に乗せた店の前である。まるで影の様な羽織でも着ているのかと間違えてしまうくらい、彼女は暗く、重苦しい何かを背負って、ぽつりぽつりと道端を歩いていた。それよりも俺は、初恵が真っ赤な紅を塗っているのを見るのが初めてであった事とと、そんな初恵に強烈な色気を感じてしまった事が今も両眼から離れず、俺に複雑な欲求を突き起こしてならなかった。その日は車には乗せず、彼女の横を追い抜いていった』

 ~~ 雨 ~~

 一九XX年十月二十九日
『夕刻、大雨の中を家に戻ると、全身濡れ果てた初恵が門前脇に立っていた。俺がどう何を聞いても初恵は何も答える様子は無く、じっとうつむいたままだった。宗佑さんの屋敷へ連れようにも彼女はびくとも動く気配は無く、俺は石仏でも相手にしているのだろうかと錯覚してしまう程、初恵の意志は重く感じた。気が付けば、俺は初恵を抱きしめていた。この冷たい雨である。初恵は小刻みに震えていた。抱き寄せたと同時に庭先の灯籠の影に彼女を引き込んだのは、いくら暗がりであっても周りからの人目を恐れていたからだろう。自分の雨外套を開いて初恵を懐に隠し入れ、しばらくその場に居た。黙っている初恵から少し温もりを感じたのは、俺の胸元に彼女が出す吐息の温かさだった。人の吐息がここまでの暖を与える物だとは俺はこの時に初めて知った。初恵の額には艶やかな髪が雨で張り付いていて、濡れ浸っているその髪の隙間から、秋の名月の様に眩しく、愛らしい額が見えていた。気が付けば俺はその額に接吻をしていた』

 一九XX年十月三十日
『俺は子供の頃に一人の少女に恋をしていた。彼女が持つハンカチイフからは、清潔感が溢れる薔薇露の香りが常にした。あの優しい香りは忘れもしない。昨晩帰宅した後、外套を脱いだ時の初恵の残り香がそれであった。あの後、初恵を屋敷へ戻した。既に屋敷では侍女や使用人達が騒ぎ始めていた。あの時、初恵は接吻の後、二三度呼吸を乱しながら少し震えていた。そして、あの時と同じ様に微笑して、まるで憑き物が取れたかの様に身軽な風になって、俺に連れられ屋敷へ戻ったのである。驚いた様子の侍女の一人が初恵を抱き抱える様に奥へと連れ行く時、玄関に立っている俺に向かって初恵が振り返り、恐らくだが「お手紙はお読みになりましたか?」と唇を動かしてから奥へ消えた。濡れた髪が邪魔をして初恵の表情の全容は分からなかったが、醸し出した雰囲気は、幼猫ではなく明らかに女性になっていた。この後、手紙を開封してみようと思う』

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 ところがその翌日以降の数日間、日記には初恵のことは一切書かれていなかった。
 それからしばらくして、ようやく初恵が登場したのは、ずいぶんと後のことであった。

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 一九XX年十一月十五日
『やはり誰かに見られてしまっていた様だ。先日の雨の日の出来事である。妻に朝っぱらから問い詰められたが、いやはや致し方あるまい。俺は初恵を好いている事に違いが無い。来月に東京の浅草で榎本健一が旗揚げ公演を行うらしく、初恵が見たい見たいと言っていた。そんな事を初恵が好んでいたとは意外ではあったが、何とかして都合を工面しなくてはならないところである』

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 初恵の手紙を読んだであろう誠司の気持ちは、明らかに彼女への恋心が再燃したようだった。
 日記には初恵のことが書かれていなかったが、初恵と誠司は継続的に内密に会って縁を深めていることが察せられた。
 だがそれが祖母の美由紀に悟られていたようだが、ある意味で開き直っているような、そんな祖父の居直った言葉使いが読み取れて、真希にとっては実に不快だった。

 ~~ 初恵の変化 ~~

 一九XX年十一月二十日
『もし俺に妻や子が居なかったとしても、俺は初恵の事を愛する事が出来たのだろうか。遠い血縁者同士だったり、父と娘程の年齢の離れた物同士が婚姻する事なぞ、広い世間で何も珍しい話では無いはずだ。自分勝手は承知している。妻子だけでなく宗佑さんや桐絵さんにも罪悪感はある。しかしどうして俺は初恵の事で頭が一杯になっているのか。それよりも、初恵は大阪の某と結納をしたらしい。それを俺に伝えた時の彼女の横顔は少し誇らしげにも感じられ、俺は不覚にも強い嫉妬心を猛火させてしまった。一歩間違えれば、俺は初恵の純朴さえ汚し兼ねないと、同時に自らに恐怖した。やはり、初恵とは距離を置こう。置かねばならないだろう』

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 一九XX年十二月三日
『この寒さは身体にこたえる。師走に入って忙しさの真っ只中だったが、今日は昼過ぎで仕事を切り上げられた。早々に帰宅して、温かい風呂場に長く居た。夕食には温かい鍋を食した。疲れが取れ、鋭気を養えた。今日は早く床に就く事にしよう。初恵、俺も最近はこの掛け布団がお前なのである』

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 一九XX年十二月十四日
『明後日は初恵と東京浅草へ行く約束であったが、随分と顔を合わせておらず、彼女もこの事をもう忘れているのかも知れない。忘れてくれた方が俺にとっては悔しいが、迷いのある本心からすれば、その方が都合が良いに決まっている。だが初恵の縁談話も気になっている。直接会って話を聞きたかった。彼女はまた誇らしげに大阪行きを俺に話すのだろうか。考えただけでも胃の辺りがムカついてくる。俺の初恵への独占欲がそうさせているのか。妻子の居る身で随分とわがままな男である』

 一九XX年十二月十五日
『初恵は浅草行きを憶えていた様だ。帰宅の時に門前の脇に彼女は立って居た。周りの目もあるので俺はそのまま車で通り過ぎてしまった。暗がりの中に初恵は立って居た。厚手の袷羽織に身を包み、藍色の御高祖頭巾をかぶっていた。頭巾の隙間からは見開いた大きな目が見えていた。少し逢わなかっただけであったが、更に痩せた様子に彼女が見えたのは、闇に浮かんでいる様に見えていたからでは無い。思い詰めた女の強い意志をその眼差しから俺は怖い位に感じ取っていた。明日俺はどうすれば良いのか。仕事の予定で東京に、と妻には虚語を伝えている。実際は仕事の予定など入っていないのだが』

 ~~ デート ~~

 一九XX年十二月十六日
『朝、森の入り口へ。約束の待ち合わせ場所に初恵は立って居た。侍女を欺き、また少し誇らしげに、いつもの学校へ行く時の品の有る着物姿であった。やはり少し痩せた彼女が、眩い朝霧に包み込まれていた姿は、一旦遠くで車を停め、進む事を躊躇させる程に神々しかった。しかし近付くに連れて、昨晩の様な異様に強い眼力は彼女に無く、少しだけ大人っぽく化粧をした少女に、先に感じた神々しさよりも、生々しい女性を感じさせていた。後部座席に座った初恵は「何処か眺めの良い所に連れて行って下さりませんか」と言った。「浅草の榎本健一の舞台は良いのか」と何度も聞いたが、初恵は「はい」の一点張りであった。眺めが良い場所だとすれば、泡垂山になった。道すがら、特別に会話をする事も無かったが、車内に充満する彼女の薔薇露の香りが、俺の恋欲を更に駆り立てていた。昼前には二人で山頂から相模湾を眺めていた。冷えた潮風が頬を縮ませる。ふと初恵の方に目をやると、遠く江ノ島でも見ているのだろうか、両手を口に当て、寒さに耐え、ただただ黙って遠くを眺めていた。だが彼女のその瞳の輝きは、この冬空の如く、一片の曇りも見当たらなかった」

 一九XX年十二月十七日
『宗佑さんが早朝に我が家に怒鳴り込んで来た。もう理由は分かっていた。昨日初恵を連れて出掛けた事が、やはり誰かに見られていた様だ。俺は初恵に対する愛情を隠し、ただただ誤魔化したてきたが、宗佑さんと側に居た私の妻の表情は、まるで山颪の様に冷たく乾ききった冷淡な目付きで俺を睨みつけ、俺の内心に巣くっていた欺心を切り裂いた。初恵は予定を繰り上げ、年末には大阪に発つ事になったらしい。宗佑さんは吐き捨てる様にその事を告げて我が家を後にした。妻は当然、今日も口を一言も聞いてはくれなかった」

 一九XX年十二月十八日
『初恵の顔を思い出そうと必死に考えても一向に思い出せないのは何故だろう。俺達の仲を暴かれた、そんな罪の意識がそうさせているのか。俺は初恵の顔を思い出す事さえ許されないのか。街の喫茶で、長野から来た客と仕事の打ち合わせを進めていた。俺と膝を突き合わせている彼はその間、まさか俺が初恵の、彼女の顔を思い出そうと必死だった等と思ってもいなかったであろう。ただ俺が気になって仕方なかったのは、彼が昼飯に蕎麦でも食べたのか、笑う度に見える左の前歯にべったりとへばりついた海苔がどうにも不快で気持ちが悪かった』

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 一九XX年十二月二十二日
『初恵の家に立派な車が数台乗り付けていた。俺は自分の部屋からそれらを眺めていたが、初恵の許嫁がやって来た様子なのは簡単に理解する事が出来た。もう時期初恵は大阪に行ってしまうのだろう。何日に発つのか。俺が知る術はもう無い』

 ~~ 聖夜の過ち ~~

 一九XX年十二月二十五日
『最近までの今日はクリスマス色で彩られる事が多かったが、戦争の影響なのか今年は静かなものである。クリスマスとは聖夜とも言われている。長風呂でのぼせた俺が屋敷の庭へ出て、納屋の近くで星空を眺めた。北の空に北極星が瞬いていた。ああ、あれは。もう手の届かない初恵の様に、当たり前だがやけに遠く感じた。そんな寂しさについ視線を逸らすと、十字架を連想させる北十字星。今日はクリスマス。あれを見て、イエスキリストに想いを馳せる人は今の日本にどれだけ居るのだろうか。そんな時に突然、俺は後ろから誰かに抱きつかれた。もう誰かを間違える筈も無い。俺の初恋の香りを纏う、そんな存在は唯一、もう初恵以外居ないのだから。細身の女とは思えない程の力強さだった。何とか身体を反転させた直後、あの雨の晩と同様に、初恵の顔は俺の胸の中にあった。視線を落とすと、初恵を抱きしめる俺の腕から初恵の張り出した腰へ、更にその先を見下ろすと、初恵は庭に出て来た俺を見るや否や、家から飛び出して来たのだろう。素足のままの踵が見えた。俺は無性に泣きたくなり更に力強く彼女を抱きしめた。しかしそれを上回る信じられない力で、初恵は俺を納屋の中に押し込んだ。聖母マリアは処女懐胎し、馬小屋でイエスキリストを産んだらしい。真っ暗で埃臭い納屋の中の俺達は、そんな聖なる夜に大きな罪を犯したのだった』

 一九XX年十二月二十六日
『真っ暗な納屋の小窓から、青い月明かりが初恵を照らしていた。青白く透き通った初恵の薄い皮膚には、緩やかなあばら骨が水面の波紋の様に浮いていた。体温によっていつもより強く胸から漂う薔薇露の香りの中に俺は埋もれていた。冷え切った納屋の空気の中でも、初恵の芯部は情熱的な体温で温かく、それらの全てが俺を、いや俺達を狂わせて、欲望のままに溺れ沈んだ。どれ程の時が経ったのか、お互いの汗ばんだ身体が少し乾きかかった時、初恵は着物を無造作に羽織り、横座りになって、またいつもの様に微笑した。その姿は、聖母マリアと言うより、やはり観音菩薩を見ている様で、たとえ乱れた髪であっても、その姿は荘厳と言っても過言ではなかった』

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 祖父と初恵は結ばれた、という表現方法が正しいのか、この時の真希には分からなかった。
 しかし、このとき二人が幸せであったことは間違いないだろうと、真希は思わざるを得なかった。
 一度でも燃え上がってしまった愛炎は、簡単に消し去ることはできないのだろうと真希も同感してしまっていた。
 そう、全てが燃え尽きてしまわぬ限り。