焦爛の芍薬 第6話 ~金切り声~
- 2025.01.14
- 小説

~~ 純粋 ~~
十九XX年十二月二十七日
『あの聖夜に初恵がつぶやく様に言った。「二十八日には私は大阪へ発つ事になりました」と。その時の表情は果たして誇らしげであったのか暗がりで分からなかった。ただ俺の胸に、ぽたりとひとつ、生暖かい感触があった。それが直ぐに冷やされて、障子紙の様な薄っぺらな俺の心に丸く小さな穴を空けた。その穴から蜘蛛の様な格好をした「許されざる異形な虫」がカサカサと這い出して来た。するとその虫は、俺の胸元から甲高い声でこう語った。「おいお前、この娘と駆け落ちすれば良いではないか。お前ならば簡単な事だろう。遠くへ、この娘と駆け落ちすれば済む話じゃないか」と俺に問い掛けて来た。しかし、先程に気をやったばかりで物解りの良い少年の様な心になってしまった俺には、そんな言葉を真に受ける筈も無く、その虫を簡単に握り潰してしまった。初恵とは今生の別れとなる。もう平常心で居られる訳も無く、俺は今、浴びる様に酒を飲み続けている」
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この日の日記の筆跡は、誠司の心が乱れているが如く荒々しく書き殴ってあり、無気力を感じさせる程の、まるで敗者の弁のようであった。
この時、誠司は初恵を愛していたに違いない。そして初恵も同じように誠司を愛していたのだろう。
世間から見ればお互いに呆れるほど不純である。が、二人にとっては、これほどの純粋は無かったのだろう。
美由紀が言った「仕方がないのよ。お互い好きになってしまったものは、もう誰も止められないものなのよ」
真希にはその言葉の意味がよく分かっていた。
そして二人に永遠の別れが訪れる。
~~ 火事 ~~
十九XX年十二月二十八日
『今日は仕事納め。夕刻の頃、宗佑さんの屋敷で火事があったらしい。全焼は免れたものの、初恵の部屋を含む屋敷の半分は焼け落ちたようだ。出火の原因は暖炉か火鉢による物だとか。今の俺にはもうそんな事はどうでも良かった。現に初恵は大阪へ発っているのだから、彼女が何に困るというのだ。しかしこの年末に宗佑さんらにとっては災難だったとしか言えないが。もしまだ初恵が居たのならば、我が家にしばらく居候なんて出来たかも知れない』
十九XX年十二月二十九日
『昨晩は夜遅くになっても隣で消防団員が騒ぎ立てていた。初恵が居ない屋敷なんぞ俺は何の興味も湧かない。そんな真夜中の騒然を子守唄にし、掛け布団を抱きしめながら俺は寝床で泥酔していた。今日の昼過ぎには女性が叫ぶ金切り声が聞こえたが、あれは桐絵さんの声か。何か大切な物でも焼けてしまったのだろうか。今日は純愛小説なぞを読みふけっていた』
十九XX年十二月三十日
『消防団員の騒ぎの原因が分かった。どうして桐絵さんは金切り声をあげたのかも分かった。初恵、どうして』
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十二月三十日の日記の祖父の文字は正直文字になっておらず、震える手で何とかして書いたのであろう感じだった。
三十一日からあくる年の十九XX年一月七日までの日記は記載されていなかった。
記載されていなかったのではなく、書けなかったのだろうと真希は察しがついた。
八日から再開された日記の文字は、年末と同様に何の力も入っていない、か細い筆圧から始まっていた。
~~ 動揺 ~~
十九XX年一月八日
『昨晩、初恵の夢を見た。夢の中の初恵は真っ白な霧が立ち籠める中で、真っ白な着物を着て立っており、いつもの様に微笑みを浮かべ、ただ黙って俺を見つめていた。風が囁き、初恵の長く美しい髪がそよぐ。顔に掛かった絹糸の様な髪を、初恵は白く細い指先で耳へ掛けた。俺は何より、動く初恵が見られた事に喜びと安堵を得て感動していたのだった。初恵は何かを話していた。薄く艶やかな唇が動いていた。だが風の音が強く、俺に何と語りかけていたのか、分かりそうで分からなかった。俺に何と言ってくれても良い。俺は君の声が聞きたい。あの透き通った、鼻にかかったあの幼声を、もう一度で良いから聞きたいのだ』
十九XX年一月九日
『新年の挨拶に来た取引先の野瀬さんから気になる話を聞いた。彼が言うにはこうだった。
「ええ、年末にお宅へご挨拶に伺ったのですよ。ええ、二十八日の夕刻前でございます。あの時は既にお隣のお屋敷から火の手が上がり始めてございました。ええ、屋敷の家人達が大慌てで屋敷から出て庭で右往左往しておりました。ああっと言う間に火が広がって、何とまあ若い娘さんが巻き込まれてしまったそうで。お気の毒な事でございました。私はただただ狼狽えて居るだけで精一杯でございまして、ええ、情けない話でございます。ええ、その場に奥様も居てらしてございましたが、あのお方は常に冷静でございますねえ。ええ、何も動じる構えも無く、流石でいらっしゃいましたよ」
あの日、出火直後に美由紀が居たと言うのか。甚だ理解し難いが、俺はあの日、火事の事を妻に聞いた時、妻は「私は街に出ておりましたが、街で宗祐さん宅の騒ぎを聞いて、急いで戻りました」と言っていたのだが。俺は野瀬さんの話を聞いてから、頭が重たくなった』
十九XX年一月十日
『消防の話では、宗祐さん宅の火事の原因は失火では無くて放火の可能性もあると見て捜査をしている様子だった。当時の事を妻に聞いてみた。屋敷の火事の時の終始は一体どんな様子だったのかと。美由紀が言うにはこうだった。
「私が戻った時には屋敷は半分ほど燃えておりました。もう消火を始めている者もおりましたが・・・・
「それって日記の切れ端じゃない?どこにあったのよ」
いきなりのこの声に、真希は心臓が破裂するほど驚いて背中をビクッとさせた。
「わっ!びっくりした!」
「私もずっと探していたのよそれ。ちょっと見せてもらってもいいかしら?」
まだ心臓の動悸が治まっていない真希は、なんとか呼吸を整えようと大きく息を吸って吐き出した。
「ちょ、ちょっとごめんなさい。私もまだ読んでいる途中だし・・・何でおじいちゃんがこの部分を切り取って隠そうとしたのか、全部読まないと分からないから」
「嫌だわ、女との浮気事が書かれているだけでしょう。それはさっさと処分しないといけない物だから。さぁ、早く渡して真希ちゃん」
「いやもう少し待ってもらえません?もう少しで全部を読み終わるので」
「全部読む必要なんかないでしょ!いいからそれを早く渡してくれる?」
あまりにもしつこいので、真希はあえて意地悪にこう言ってみた。
「ちょっと待って。私が読んではいけない内容でも書かれているんですか?」
「じゃあ逆に教えてくれる?それには何が書かれているの?あの女との浮気事の意外に、何か書かれていたのかしら?」
「それを今から確認したいんですけど、私が読んではダメなんですか?多江さん」
そう、土蔵に来たのは祖母の美由紀ではなく、多江の方であった。
多江がなぜこの日記の切れ端にここまでの執着心を滾らせているのか。
懐中電灯の光を微かに浴びた多江の痩せた顔には、刻み込まれているシワ以外に表情が無かった。
まるで千年の恨みでも抱えているのかの如く、厳しい眼差しを真希の手元に向けて差し込んでいた。
真希はいつか行った高幡不動尊で見た不動明王像の目のような、破魔なる力を得た多江の眼力はとても尋常ではないと驚異を感じていた。
がしかし、多江が火事のことで何かしらの情報を知っていることは容易に想像ができた。
「とにかく続きを読ませてくれないかな?おじいちゃんが私に何を伝えたかったのかを知っておきたいから」
こう言った真希から、多江は彼女の手元の日記を強引に奪ってしまった。
その素早さは真希の油断もあったのか、彼女が反応できないほどの早さで一瞬の出来事だった。
そして多江は、日記の束を雑巾を絞るように捻り潰した。
「これはね、私とお姉さんにとってこの世にあってはならない物なの。こんな物は処分させてもらうわね。お姉さんもどうして土蔵に日記帳を残したままなのか、私には理解できないわ」
「多江さん。おじいちゃんもおばあちゃんは私に知ってもらいたいこととか、訴えたいことがあったんじゃないかな。もちろんおじいちゃんとおばあちゃんではお互いに私に知ってもらいたいことは違うのかも知れないけど、その日記の切れ端に二人にとって大切な何かが記されている可能性だってあるでしょ?」
「そんなもん、あるはずないでしょ」
多江はまるで答える気がないよう即刻に真希の発言を切り捨てたが、真希は反撃の一手に出た。
「多江さん、宗祐さんって人の家の火事。これって本当に暖炉か火鉢からの失火が原因の火事だったの?」
その言葉をかけたとき、明らかに多江の表情がガラリと変わったのが真希は嫌でも分かった。
「最後まで読ませてもらって良いですか?その日記を返してもらっても良いですか?」
そう言って右手を差し出した真希であったが、多江は両目を見開いたまま微動だにせず、彼女を敵意剥き出しで睨み返していた。
あの世話好きで人当たりの良い多江は一体どこに消えてしまったのか。
それよりも、何が彼女をここまでそうさせているのか。
真希はそれも知りたくてたまらなくなっていた。
真希は空手の有段者で身長は多江よりも十センチ以上も高い。
その気になれば力ずくで日記を奪い返すこともできたし、多江が攻撃的になっても応戦することができた。
だが、そうはさせない強い何かを多江が発しており、あっさりと日記を奪われてしまった真希は、まさに蛇に睨まれた蛙状態にまで成り下がっていた。
多江はこう言う。
「お姉さんが本当にどれだけ辛く苦しい思いをしたか想像してごらんなさい。私はお姉さんから何度も相談を受けたのよ。あの娘は私たち家族や親戚との仲までバラバラにしかねない大変なことをしてくれたの。天罰が下ったの。自業自得であの娘は火事で死んだのよ」
多江が自分自身に言い聞かせているように聞こえたのは、真希は自分の思い違いだったのだろうと、このときだけはそう思っていた。
~~ 駆け引き ~~
「多江さん、とにかくそれは返してもらって良いですか?私はそれを読まない限りここから帰られませんから」
真希の問いかけにも当然のように多江は応じようとしなかった。
「ならば仕方がないわね。強引にでも返してもらいますよ」
彼女はもちろん本気ではなかったが、指を鳴らして威嚇をした。
一瞬、ひるんだように見えた多江だったが、何としても日記を返す素振りは見せなかった。
真希は思いきってこう切り出してみた。
「嫉妬に狂ったおばあちゃんが火を付けたんじゃないですか?その日記には書かれていたわ。火の手があがったばかりの屋敷から、おばあちゃんが出て来る姿を目撃したと言う人の証言が。知っているんですよね。そのことを多江さんは」
こうなったら揺さぶるしか無いと思った真希は、疑念を多江に真っ直ぐに投げつけた。
「それと私はずっと引っ掛かっていたの。澄夫さんが言っていた言葉だけど。『初恵さんの話は知っているかい?知らない?そうか。君のおばあさんは、おじいさんに、もっともっと感謝するべきなんだよ』って言葉。本来ならば逆でしょう?どうしておばあちゃんを裏切ったおじいちゃんのことを、おばあちゃんがもっともっと感謝しなければならないのよ」
そしてこうも続けた。
「初恵さんに対して報復としておばあちゃんは何かを行動した。それをおじいちゃんは黙って見過ごすことにした。おじいちゃんは家族への罪悪感もあっただろうし、事実が明らかになれば、おじいちゃん自身の社会的立場も失う可能性がある。でもその事実をおじいちゃんは日記にしたため未来へ葬った。いつかそんな噂話を聞いた私がおじいちゃんの日記を探りにくると予感していたのか、そこまでは分からないけれど」
真希の言葉に対して、多江は表情を一切変えることなく反論もしなかった。
「初恵さんがどうして死ななければならなかったのか。ことはどうあれ、人が一人亡くなっているんだから。お願いだからその日記を返してくれませんか」
「こんなところで二人揃って、しかもこんな時間に何をしているの?」
さすが姉妹である。
声も似ていれば登場するセリフまでも似ている。
ギラリと光る鼈甲の眼鏡に、冷気を感じるほどの不気味さで身を覆って、祖母の美由紀までも土蔵にやって来たのだった。
真実を知ることは本当の幸せに繋がることなのか。
人が生きて行く人生のうえで、知らなくても良いことはこの世の中には多数ある。
このときの真希は、痛いくらいにそれを実感していた。
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