お正月
- 2026.01.03
- エッセイ
不思議と昔から父の実家のことを「おばあちゃんち」と呼んでいた。祖父もまだ健在のときからである。
確かに幼少の頃から父の実家へ行くと、いつも祖母が遊び相手や話相手になってくれていたし、お小遣いをくれたり、おもちゃを買ってくれたのも祖母であった。だから子供からすればゲンキンなものなので、祖父がいても「おばあちゃんち」になったのだろう。
我が家というか、我が一族はだいたい一月三日におばあちゃんちで新年会を開いた。
私たち一家は、普段は車移動がメインだが、この日ばかりは電車で片道一時間の行動をとった。三が日でも電車内は案外混み合っていた。まだ小学生の私にとって電車移動というのは気持ちを躍らせる。真冬だからか、線路のつなぎ目を叩く音も乾いて弾んだように聞こえてくる。それは大好きなおばあちゃんちに向かう自分の心内が、さらに気持ちを昂らせたのかも知れない。
子供の時分にお正月といったらお年玉収集に限る。
実家に皆で集まって、飲めや騒げやとワイワイやるのは大人たちの楽しみ方であって、子供目線ではやっぱりお年玉収集がメインであった。
この日だけで祖父母からと、二人の叔母に叔父の、最低でも四つはお年玉を賜ることができた。
父は四人兄弟の末っ子である。この父方の一族は、私のいとこまで数えると総勢で二十人弱になった。
戦前の長屋をぶった切っただけの狭い平屋建ての作りで、部屋数も多くなかったし、総勢の半分は子供だったにしても、今思うとよくあの狭い空間に集まったものだと思う。
大人たちは肩を寄せ合って酒盛りだが、印象的な人と言えば、下の叔母の旦那さんであった。大人グループのなかで一番弱いポジションである。父から見れば彼は義兄であっても、年齢的には父より年下だったからなおさらだ。
父と叔父に挟まれてビールをつがれては「飲め飲め」とあおられていた。ちょうど柱時計の真下あたりだった。グラスに少しでもビールが残っていると「全部飲んでからだろ!」などとドヤされて、真っ赤な顔を困り笑いで歪めながら、下唇を突き出すようにグラスの縁をくわえていた。
子供目線ながら少し気の毒に思えるほどだったが、後々に判ったのは彼は無類の酒好きだったらしいので、当時はまんざらでもなかったではなかろうか。その後、彼のように、下唇を突き出すようにしてグラスで飲む人を見ると、この人も吞ん兵衛なのだろうなと見るようになってしまった。
上の叔母と叔父、そして私の父の三人は血のっ気が多い。それは祖母の気性に似たのだろうが、下の叔母は祖父に似て穏やかな性格だったので、野蛮で血のっ気が多い酒盛りの輪にはあまり入っていなかった。
祖母はというと、息子や娘たちを前にして、普段からほとんど酒は飲まなかったが、舐める程度のビールで「ガッハッハッハ」と丸っこい身体をゆすって、片っぽだけ金歯である前歯を見せながら、豪快に笑っていた。
戦後の極貧時代に子供四人を育てあげた末、孫にも囲まれて幸せなひと時だったのだろう。
笑っている祖母を見るのが私は好きだった。ドラえもんが笑っているようで、こっちも愉快になった。つられて一緒になって笑ってしまいそうな笑い方だった。
ひとつ思い出したことがある。
お正月に行くと、まず最初に祖母にお屠蘇を必ず飲まされた。
朱塗りの急須のようなお銚子に、薄く平たい盃、蒔絵の入った盃台がセットになって屠蘇台に乗っていた。
あけましておめでとうございますの挨拶を済ませると、仏壇の前で祖母が私と姉に注いでくれるのである。
思えば私たち孫世代はみんな飲まされていて、大人たちが飲んでいるのは見た覚えがない。
幼稚園時代には不味いと思って苦手であったが、小学生にもなるとお正月に味わえる特別感がなんとも言えず、みりんと日本酒の刺激が鼻奥にツンとくるが、生薬独特の、ひん曲がったような香りのあと、ほんのりとした甘みが口に残る。
これを飲むと少し大人っぽさを背伸びさせるような気がして、お屠蘇がないとおばあちゃんちのお正月じゃない、と思えたほどだった。
「お父ちゃん飲んでるの?」とだいぶ酒が入って上機嫌な父が、祖父の方に首を伸ばした。
祖父は居間からつながっている隣り部屋のタンスに寄りかかっているのが定位置で、そのときも愛飲している白雪を、ひとりでちびりちびりとやっていた。我が子たちの野蛮な飲み会にも、積極的に入っていくことはなかったように思える。
祖父は寡黙な人で、心内の一切を孫の私にも明かすような人ではなかった。
祖母と真逆の性格だったので、小さい頃から祖父に懐いた記憶はないが、誰かを𠮟ったり、不機嫌な姿を見ることもなかった。
祖父が若かった頃の話はあまり知らないが、祖父も元来は相当な酒好きだったらしいし、揉め事も相当数あったそうだ。
家計が厳しいにも関わらず、毎晩飲んで帰ってくるものだから、真冬の極寒の夜に、酔って大声で歌いながら帰って来た祖父に向かって、祖母が玄関前で水をぶっかけたとか。そんな子供時代のエピソードを父から聞いたことがあった。
「夜中にお父ちゃんの大きな歌声が段々近づいてくると、お母ちゃんが怒り出すのが怖くて、布団を頭までかぶって寝てるフリをしたな」と父は苦笑いで言っていた。
私の知る祖父のイメージとはえらい違いで、とてもそんな風なことをしでかすようには思えなかったが、それだけ祖父も祖母も若かったということだし、人の人生にはそれぞれ色々な事情があると察するしかない。
私の母と、叔父の奥さんの立場は「嫁」であるからして、居場所は流しで調理担当であった。
昔の家の名残りで、土間があった流し台は一二段低くなっている場所にあった。
大人二人が横並びできないくらいの窮屈な空間であったが、母と叔母はお互いの身体を器用に半身にしながら料理やお燗の支度をしていた。
そこにちょくちょく下の叔母がやってきて、母たちのサポートをしてくれていた。
流しの近くに、そこも二畳ほどの相当狭いところなのだが、ちょっとした小さなテーブルを置いて、母たちはお茶やお菓子をつまみながら、嫁同士、女同士の会話をしていた。
幼い私からすると、その話の内容というよりも、ひそひそ話に近い小声で会話をしている母たちの声の響きが心地よかった。
眠る前の読み聞かせのようなトーンで、声色はそれに近いゆらぎがあった。父たち一堂の野蛮な宴よりも、私は母の近くにいて、いとことカルタをして遊んでいた方が快適だったのだ。
が、そんな私のお正月のひと時は長くは続かない。
「おい!聡似!こっち来い聡似!」
酔っぱらって気が大きくなっている父のガナリ声、というか雷鳴のような怒号が居間の方から轟いてくる。
あの声を聞くと、いつも両肩がギュッと縮こまって、背筋がピンと伸びた。
助けを求めるようにそばの母に横目をやると、母は仕方なさそうに笑いながら、アゴを使って居間の方へ行きなさいとクイッとやった。
オドオドしながら居間の方へ行くと、真っ先にタバコのむせかえる匂いが迎えてくれる。
人とお酒とタバコの煙、それに暖房の灯油が入り混じった独特な匂いだった。
そのムッとする熱気が充満している中に、酔っぱらって気持ちよさそうな大人たちの赤ら顔が私に注目していた。
良い気持ちになって酔っぱらっている大人たちの顔は、なぜか皆さん同じ顔に見えた。気持ち良さそうに温泉に浸かっているお猿さんたちと変わらなかった。
お猿の父の用件は、お酒が無くなりそうだから買って来いというのである。
普通に話せば判る年になっているので、何もそんな荒っぽい呼び方をしなくても良いのに、以前から父は人前において、私の名前を高圧的に呼びつけることが多々あった。
自分の親兄弟の前では、思わず自己顕示欲が強く出てしまうものなのだろうか。
一方、私の姉に対してはそんな大きな声で怒鳴るように名前を呼んだのは聞いたことがない。
二つ上の姉は、弟の私が言うのもなんだが、昔から頭が良くてズル賢い。運動神経も抜群で、精神力もタフなうえ身体も丈夫。で、その正反対が私であった。
名作ドラマ「北の国から」で、父親の五郎が子供の純と蛍を差別というか、区分けして接していた時期があった。純にはよそよそしく敬語を使い、ときに冷淡に厳しく当たる。一方の蛍には優しく接し、行動や言動に理解を示していた。それに近かった気がする。
だが今考えてみると、当時の父は今の私よりも全然年下であったし、見栄を張りたいとかイキがるとか、現在ならば何となく父のやり方も気持ちも判らなくもない。
今の時代では小学生にお酒を買いに行かせるなどもっての外だが、昔は違かった。
三が日なので、もちろん酒屋さんはやっていない。なので酒屋さんの脇にある自販機に使いに出される訳だが、ついでにタバコも頼まれる始末だった。
だが悪いことばかりではない。父は大きくなっている気と一緒で、お金も多めにくれるので、お釣りは私のお駄賃になるのだ。もしくは好きな飲み物を買っても良いので、普段は禁止されている炭酸飲料を買ったりして気分を紛らわせた。
その前に少し厄介なのが、お金を長兄の叔父が出そうとしたときである。
「あんちゃんいいよ、俺が出すから」「なに言ってんだ、俺に出させろ」と面倒くさい兄弟のやり取りが始まる。
私は、どっちでも良いから早くしてくれ、とはならない。もし叔父がお金を出してしまったらお駄賃どころか、お釣りはすべて叔父へ返さないとならないからである。
仮に叔父が「聡坊も何か好きなものでも買ってきな」と優しい言葉をかけてくれようものなら、直ぐ横の父が目を三角にして「余計なもんに使うんじゃねぇぞ!」とカマしてくるのだ。
そんなこんなでおばあちゃんちから一歩出ると、あの煩わしい濁った空気から開放されて、新春の爽やかな冷たい空気を鼻から吸うと、頭の中が浄化されたようにスカッとして新鮮な気持ちになり、一応の新春を味わったりしていた。
毎年恒例だったおばあちゃんちでの新年会も、私が中学校に上がった頃には行われなくなっていた。
祖父母がおっくうになってきたのか、集まりが悪くなってきたのか、理由は定かではない。
私自身も思春期に入り、お年玉への欲深さよりも、親戚と顔を合わせることが面倒な方に気持ちが変わっていたのもある。
今では祖父母、下の叔母夫婦も鬼籍に入ってしまった。
お正月になると、お酒やタバコの匂いだったり、ドヤドヤしていたあの騒がしく、野蛮な飲み会が妙に懐かしく思えるときがある。
怒鳴るように私を呼んでいた父も、現在では孫に狂っている耳が遠いおじいさんになっているが、相変わらず声だけは大きいままだ。
当時は大人たちの野蛮な飲み会は好きにはなれなかったし、今の私でも、あの雰囲気に抵抗感は否めない。
しかしなぜだろう。
一度でも良いから、あの日をまた経験してみたい。
一日でも良いので、あの日に戻ってみたいと思ってしまう。
若く、働き盛りのギラギラしていた父たちの、たくましく、むさくるしいあの感じである。
今の時代のような味気ないお正月ではなく、お正月古来の名残りであったり、空気感に趣があって、少なくとも三が日は街も静まり返っている。そんなお正月だ。
かったるくても余韻に浸れるお正月を、もう一日だけでも経験してみたいものである。
自宅近くの児童公園で、家族でやった凧揚げも懐かしい。
真っ青な澄んだ空に、白い月がかかっていて、その脇には安っぽい黄色いビニール製の凧が、薄っぺらい身体をバタつかせていた。
引っ張りきれないくらいに、非力な私の身体が持っていかれるほど、怖いくらいにグイグイと凧は力強かった。
そこの児童公園も、今ではもう大きなマンションである。
おわり
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